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上越教育大学教職大学院准教授片桐史裕です。
2016年3月まで27年間新潟県の高校国語教師を勤めていました。
映画のことや,教職のことについて書いています。
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教室『学び合い』フォーラム
第15回(2019年)《海》,《山》は
2019/8/3〜4に福岡県,2019/11/2〜4に長野県でおこないます。
manabiainu
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2019-09-03高等学校訪問

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在学中の院生さんを連れて、新潟工業高等学校と新潟中央高等学校を訪問してきた。参加した院生のストレート生はみんな高校教員志望だし、現職の方は現役高校教員だ。

かねてから主張してきたが、教員になる方のほとんどは、専門高校を知らない。特に小学校、中学校の教員はほとんど知らないと言ってもいい。当たり前のことだが、高校教員も、専門高校に勤務したことがない人は、全く知らない。小学校、中学校の先生は専門高校のことをほとんど知らず、中学卒業時の進路指導をしなければならない。知らなければ、「普通高校至上主義」教育に使ってきた人は、普通高校が「いいもの」という幻想に取り付かれたままで進路指導をしてしまうことになってしまう。これは恐い。

ということで、専門高校(今回は工業高校)を訪問し、生徒指導、進路指導、設備などの教えを請うことにした。実は夏に以前の同僚と飲んだときに話がまとまり、実現した次第だ。

新潟県随一の設備を誇る新潟工業高校を訪れた。想像以上の設備の充実に驚いたし、生徒たちの実習の姿を感心して見ていた。教頭先生に案内され、実習の授業を訪れ、生徒に今やっていることの説明をしてもらった。みんな適切に説明してくれて、誇らしげに作業をしたり、機械を動かしたりしている。こんな技術が高校時代に付けている姿を見て、参加者からは「普通高校って何やっているんだろう……?」というつぶやきがでた。

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進路指導の説明を受けた。専門高校枠推薦で、新潟県内の国立大学に2桁人数入っている。上越教育大学も工業科や商業科などの教員免許が取れるんだから、専門高校枠を作った方がいいのではないか?と思ってしまう。静岡大学の教育学部は既におこなっている。

それは別として、新潟大学に入るのがいいのか、JR東日本や東北電力、または国土交通省に就職するのがいいのか、これは工業高校に行けば、選択が可能になる。もちろん学業成績が高くなければならないのだが、大学進学したいとありきたりの普通高校に行ったら、こんな選択は無い。このことを中学生たちは知らされずに、普通高校がいいものだと思わされて行くことになっている現状がある。

生徒指導(いじめ対策)についてもお話を伺った。事件があってから、いじめ発見、対策の詳細なシステムを構築し、毎月アンケートを行い、その回答を全て拾い上げ、気づいたことがあったら徹底的に対応するようにしたそうだ。これを全校的な取り組みにしたことで、些細なことでも生徒はアンケートに反映するようになったし、情報の共有化が容易になったそうだ。

それらの情報の共有システムを構築し、何かがあったらその情報を閲覧できるようにしている。ちょっと気になることがあったら、その情報を閲覧し、過去の指導歴、行動歴を参照し、対策をとることができる。

このような体制づくりは容易なことでは無かったと思うが、全体の問題とすることで、担任がいじめ問題を抱え込まなくなるというメリットが生まれているようだ。学級担任は全てのことを一人でやらなければと思い悩む傾向があり、それが教員としての能力だと思い込むことがある。それでは情報の共有化がされず、負担になり、気づくことが遅くなり後手後手に回る可能性がある。

言葉が悪いかも知れないが、「気軽に」情報を共有することができ、風通しがよくなったというメリットが一番大きいものだと思う。

ラグビー日本代表の稲垣啓太さんが寄付して天然芝化されたラグビー場がとてもよく映えていた。

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2日目は新潟中央高等学校を訪問した。昨年まで私のゼミ生だったU君が新採用で赴任した学校だ。私のかつての勤務校に赴任するなんて、面白い因果を感じた。

初任者ながら、堂々とした態度で授業をおこない、基本的なポテンシャルが高く、さすが上教大学部出身だと思えた。面白かったのは、大学院時代フィールドワークで授業をおこなったときと口調が変わっていたと言うこと。どちらも高校生相手なのだが、なんだかちょっと違う。学校実習と仕事とでは話し方が変わっているのだろうけれど、分析しないと何がどう変わっているのかわからない。

学校現場の目標と、自分の理想と合致しない部分はあると思うが、これから何十年も仕事をしていく上で、自分の理想を絶対に忘れないようにとアドバイスをした。

次の時間は、元同僚のT先生の英語の授業を参観した。T先生の授業は初っぱなから座席が中心に向いており、グループ活動、ペア活動、発表等しやすいようになっている。ほとんどの指示が英語でなされ、生徒も英語を話す、読むという活動が随時おこなわれている。

授業デザインも工夫され、宿題をもとにしたペアトークからのグループトーク、グループの代表のスピーキングを周りが助け合う形にしたり、文章の概略をつかむために、学習者自身から疑問、質問を引き出させたりというように、55分間の授業で全体が6セクションとなっていた。生徒を飽きさせない、活動をつづけさせる工夫が満載だった。

ペアで本文理解をするときに、辞書を引かなくても不明部分を2人で解決していく姿があり、どうやって解決しているのかとても知りたくなった。ICレコーダーを送るから、会話記録を録ってもらおうかと思っている。

久しぶりにいい授業を見せてもらった。

授業検討会をおこない、その後音楽科の施設を見学した。私は長年勤めたところだから、だいたい見たことがあるのだが、他のみなさんは施設の素晴らしさに度肝を抜かれていた。あんな立派なコンサートホールが公立の高校にあるなんて、想像が付かなかっただろう。

この学校訪問の実現には両校の校長先生を初めとする管理職の方々、元同僚の先生方にとてもお世話になった。これを機に、高校現場と大学の繋がりを深めていきたい。大学が高校現場を理解するということこそが、高大接続で求められることなのでは無いかとも思う。

2019-04-30新潟中央高校時代

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平成13(2011)年度〜平成27(2015)年度は,新潟中央高校に勤務した。転勤したての即担任,高校では,ほぼあり得ないことなんだけれど,新潟中央高校は,そういうことがあると昔から聞いていたので,覚悟はしていたし,結果,担任を持ててよかったと思う。

赴任した年の3月11日に東日本大震災が起こった。ちょうど前任校での合格発表の年だった。甚大な被害が襲い,その夜寝て,目覚めたときには「夢であってほしい」と思った。今後の私の人生はこの被害から復興するために教育をおこなおうと決意した。今もその決意は存続しているか?

赴任してから3カ月は休みがなかった。部活動,補習など新任者にあてがわれ,部活動顧問全員が新任者であり,なぜか県大会の主幹校でもあった。大学進学至上主義が一部管理職と主幹教師に浸透しており,私の授業への締めつけ,圧力,批判などがあり,こんな状態で仕事をし続けていたら,鬱になっていくんだろうなと本気で思うようになった。

自転車通勤をするようになったり,激務からか,1カ月2㎏体重が減っていった。このままでは自分の体がなくなるのでは?と思ったが,人間とはよくできているもので,ある程度で踏みとどまった。

救われたのは生徒たちがとても気心のいい人たちだったということ。こちらの指示に的確に反応してくれて,ダメなものはダメと言ってくれ,担任を持ったからこそ,こういう関係を築けたのだと思った。

大学進学至上主義は,きっともっと前からあったのだろうけれど,渦中にいきなり放り込まれたこともあり,対応ができなかった。というか,異常に反発してしまった。学校5日制の補填としておこなわれる土曜講習,退職間際とったアンケートの中では最も生徒に「効果がない」と回答されたものだった。たまの土曜に午前中,問題演習をするだけ。「5日制に対応していますよ。」とのアリバイ作りをしているだけ。「土曜講習に出ない人は大学進学を希望しない人だ。」との半脅し文句で講習に参加させていた。そして効果を実感させていない。結果にコミットしていないのだ。現在はそれらの反省で,問題演習だけではなく,進路講演会やワークショップなど,いろんな活動をしていると聞く。あの時は過渡期だったんだろうと思う。

国語科主任が漢字ばかり配られたプリントを学年全員分刷って配布せよという。なんだと思ったら,センター試験の漢文の問題で問われやすい漢字だという。そんなのを時間をかけて覚えて,1,2点上がったからといって,何になるんだろう?と思う。しかしその国語科主任は「その1,2点が大切なんだ,1,2点で合否が決まる」と本気で思っていたらしい。そんなことよりも,将来のことを語るとか,大学生活の面白さを語るとか,そっちの方が有効なんじゃないだろうか?「目の前の1,2点を取る=将来が約束される」という短絡的な思考回路が教育界に蔓延していた時代だったのかもしれない。

内田樹先生は次のようにいう

僕が大学に在職していた終わりの頃には「質保証」とか「工程管理」とか「PDCAサイクルを回す」というような製造業の言葉づかいがふつうに教育活動について言われるようになりました。缶詰を作るようなつもりで教育活動が行われている。だから、規格を厳守する、効率を高める、トップダウン・マネジメントを徹底させるというようなことが1990年代から当たり前のように行われるようになりました。

 この転換によって、「子どもたちのどのような潜在可能性が、いつ、どういうかたちで開花するかは予見不能である」という農作業においては「当たり前」だったことが「非常識」になりました。「どんな結果が出るか分からないので、暖かい目で子どもたちの成長を見守る」という教師は「工程管理ができていない」無能な教師だということになった。それよりも、早い段階で、どの種子からどんな果実が得られるかを的確に予見することが教師の仕事になった。「何が生まれるかわからない種子」や「収量が少なそうな種子」や「弱い種子」は「バグ」としてはじかれる。品質と収量が予見可能な種子にだけ水と肥料をやる。例の「選択と集中」です。

『善く死ぬための身体論』のまえがき 2019-04-15 lundi

学校教育が子どもの成長を「待てなく」なった時代なのだと思う。卒業時に「目に見える結果」を出せなければ,失敗とみなされる。失敗かどうかは本人が決めることなのに。卒業後,数年経って「新潟中央高校に通ってよかった」と思ってくれているかどうか。そこが問題なのだが,「国公立大学に○人進学したから成功だ(失敗だ)」と本気で思っている「製造者」が教育現場にはたくさんいる。

そんな職場でも,同志はたくさんおり,志を同じくして(傷をなめ合いながら)働けたので,何とかやっていけた(「同志」の別名「被害者の会」)。また,その時のことをネタに本を1冊書けたので,今となってはいい経験だとも思う。また,何度も言うけれど,生徒たちがとても心意気のいい子たちばかりで,もちろん反発をしてくる人もいたけれど,きちんと「正式に」反発をしてくるし,私のことを「同志」と呼んでくれる人もいたりして,生徒たちに救われたところもあった。

5年目に大学教員募集の話があって,応募したわけなのだが,「このままでは自分が自分でいられなくなるかもしれない。」と思ったことも応募の要因だったのかもしれない。工業製品を作るのではなく,人間が成長する手助けをする仕事に関わる人を育てていきたいと思ったのだった。

こんな感じで自分の高校教師時代を書くことで,平成を振り返ってみた。なんとか平成のうちに書き終えた。

rx178gmk2rx178gmk22019/04/30 19:06私は平成の終わりに何も残すことができませんでした。ただ、5月1日は、ちょっとだけ大切にしたいと思っています。私も平成元年採用です。教師人生がこの時代とともにあったというのは同じですね。

2019-04-29新潟県央工業高校時代

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平成16(2004)年度〜平成22(2010)年度は,新潟県央工業高校に勤務した。転勤した年に水害に見舞われ,新潟県央工業高校もかなりの被害を受けた。完全に校舎周りは水没し,教務室は1階にあったため,様々な書類が水につかり,紛失した。

高校では,朝の水が増えてきた段階で生徒は自宅待機としたので,来た生徒をどんどん帰し,生徒が学校に何日も宿泊するということはなかった。初期対応がとてもよかったと思う。しかし,近隣校では,教室に待機させ,自習をさせていたところがあったという。結果,生徒は家に帰ることができず,電気も水もまともに通っていない学校に泊まることになってしまった。これは,学校が「生徒を抱え込む」という時代の雰囲気が出ていたような気がする。

何でもかんでも学校がおこない,大学受験も,補習も,休みの日の行動さえも学校の指導下に置こうとし,その後オーバーフローして,「ブラック」と言われる勤務状態に現在なっている。そもそも,学校週5日制は,学校から子どもたちを解放させるためにできたのではないか?

特に大学進学者数が学校の評価だと勘違いする風潮が強くなってきていた時代でもあるのでは?1校に1人でも国公立大学進学者がいたら,いなかった学校よりも評価が高いと思っている管理職には辟易してしまった。たまたま優秀な生徒が入学し,その学校の教育力により学力を伸ばせたわけでもないかもしれないのに,「よかった,よかった」と思ってしまう。

もちろん,その生徒の進路希望を知っていて,それを叶えたことに対して「よかった」と思うのは当たり前なのだが,それで学校の評価がよくなるだろうから「よかった」と感じるのは,いくら管理職とはいえ,教育者なのか?とも思った。そう思わされているところもあるんだろうけれど。

私はというと,転勤したては,2年間の内地留学から現場復帰し,頭でっかちになっていたと思う。理論では「こうやれば上手く行く」というものが,現場に当てはめると上手く行かない。上手く行かないのは,相手が悪いせいだとまたまた「思い上がり」が芽生えていた。現場からたった2年間でも離れるというのは,これほど感覚が鈍るものかと,その後実感する。方法論に固執し,その先にある目的を見失っていた部分があったと思う。

堀之内高校時代に意識した「面白い」と思うこと,「役に立つ」と思うことを大切にすることに回帰し,授業実践を続けた。そうすると徐々に授業が成り立って来る。新潟県央工業高校は体育が厳しいと有名なのだが,ある卒業生に「体育と国語だけは息が抜けない。」と言われたことが,自分の勲章でもある。

まだまだ思い込みを押しつける性格は残っていて,生徒指導や学級経営でも,反発を食らうこともあった。しかし,一方で「待つ」ということもできるようになって,「今,目の前で指導して,すぐに改善させなければならない」ということはないんだ,と分かってきた。そのうち,いつか,今より良い方向に向かえばいいのだと「待つ」ことができるようになったのも,子どもができて,歳を食って経験を積んだからなのだろうか?

勤務した最終年,不祥事が起こり,保護者説明会を開くということがあった。雪の多かった年で,車で来る人のために駐車場を確保しなければならない。正式な呼びかけではなく,「雪かきしないといけないよね。」という感じで心ある職員が「よしっ!」と集まり,夕方,汗だくになって雪かきをした。損得ではなく,今,やるべきことは何か?ということで体が動くというのが,教員にとって大切なんだとも思う。それが教員集団の「和」に繋がっているんだとも思った。いい職場というのは,職員集団が互いを認め合うところなんだと思った。

2019-04-28上越教育大学内地留学時代

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平成14(2002)年度〜平成15(2003)年度は,上越教育大学修士課程*1に内地留学をした。在籍校は高田商業高校だった。後年,高田商業高校には学校支援プロジェクトでお世話になるので,縁が深い学校だ。

Windows95が発売され,インターネットが浸透していき,パソコン通信(PCVANやニフティーサーブ)で情報交換をする流れから,パソコン通信もすたれたあと,たくさんのメーリングリストに加入するようになった。全国の教師たちと情報交換ができるようになり,堀之内高校時代にはその流れでNHKの番組から取材が来るようになった。

それはさておき,メーリングリストで知り合った方が新潟県の高校の先生で,内地留学中だったので,情報を頂き,上越教育大学に行ってみたいと思うようになった。今まで様々な学校で様々な生徒や様々なカリキュラムの元で実践をしてきて,ある程度の自身もあったが,理論的なことはからきしだったので,そっちの方面も学んでみたいと思った。

思い立って内地留学のことを調べてみたら,なんと学校の掲示板に貼ってあり,申し込み締め切りが1週間後ぐらいだった。慌てて根回しやら,カミさんへのお願いやら,手続きやらをして,結果派遣してもらえることになった。

上越教育大学に行って驚いたのは,様々な人がいるということ。高校卒業後の学生はもちろんだが,同期の院生は,全国各地から,様々な校種から来ている。その人たちと協働して学んだことが今の財産となっている。

2年間,自分の好きなことに没頭して実践,研究できるというのはすばらしい経験だった。しかし,自分の至らなさを突きつけられるところもあった。全国からすばらしい教員が集まっているから,自ずと比較してしまう。自分の足らないことも明らかになる。

十日町高校時代の教え子が,小学校教員となり,上越地区の小学校に勤めていたので,いろいろ相談に来る。授業も観に行ったこともあった。その先生が生徒指導のことで悩んで相談に来るという。小学校のことだから,私にはなかなかピンと来ないこともあり,同期の小学校教師の院生にも相談をお願いすることになった。持つべきものは頼れる同期だし,なんとなく自分の限界を感じ,その時には助けを頼むというのが当たり前にできるようになったような気がする。

学校教師は,専門的な資質能力を持ちながらも,汎用的な資質能力も持たなければならない。その両方を兼ねそなえるためには,「助けてもらう」という当たり前の「能力」が必要だった。何でも一人でやらねば一人前とみなされないのではないか?という誤解や気負いを勝手に持っていたのだが,そんなことを払拭できただけでも,大学に行った甲斐があったと思う。

また,学卒院生と一緒に学ぶのだが,学卒院生から学ぶことがとても多く,若い視点からの意見は,鋭いこともたくさんあって,自分よりも経験の少ない人から学ぶということが,これほど重要なことかと思うようになった。この経験を機に「思い上がり」は,ちょっとずつ薄らいでいったのか?とも思うが,完全になくなったわけでもない。

長岡市から通っていたのだが,1年目は特急で直江津駅まで行き,直江津駅に駐車場を借りてそこから自動車で向かった。特急券の回数券があって,それを使っていたが,節約のために帰りは鈍行に乗るということもしばしばあった。2年目は駐車場代もバカにならず,毎日大学に行かなくてもいいということで,自動車通勤をすることにした。飲み会の時にお茶研やスタジオにエアマットを持ち込んで,寝たこともあったなぁ。スタジオには絶対何かがいたと思う。

ほとんど現場から離れていたので,その時の教育事情がどのようなのか,ほとんど感じていなかったかもしれない。ワールドカップの開催の年で,新潟でも試合が開かれ,どうしてその時に試合に行かなかったのか,と今でも悔やまれる。

研究は「共同作文編集」についておこない,「雑談をしている方が,クリティカルなアドバイスが多い」というものだった。2年間はとても短く,自身と不安をもとに,現場に戻ることになる。

*1:上越教育大学大学院学校教育研究科修士課程学校教育専攻

2019-04-26堀之内高校時代

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平成9(1997)年度〜13(2001)年度まで,堀之内高校で勤務した。当時魚沼は郡制をしいており,これで,南魚沼,中魚沼,北魚沼を制覇(?)することとなった。

当時堀之内高校は全日制普通科だった。現在は改組して単位制となっている。普通科といっても,2クラス商業クラスがあり,私はそこの担任となった。それがきっかけとなり,商業教育にも関心が向くようになった。

十日町高校時代に「子どもたちに本当に必要な教育」が必要だと思うきっかけになったが,具体的にどんなものかはまだつかめずにいた。今までおこなっていた受験対策の勉強を薄めた(優しくした)授業をやっても,全く生徒たちは乗ってこなかった。それはそうだ,子どもたちは必要だとは思っていなかったのだから。そして悩む日々が続いたのだが,教科の学習そのものを「面白い」と思ってもらう授業内容と,教科の学習が「役に立つ」と思ってもらう授業を考え続けた。

「面白い」と思ってもらう授業とは,作品自体の「面白さ」もあるし,いろんなことを発見する「面白さ」もある。そして次の段階として,分からないことを解るようになるという「面白さ」がある。そこまで登ってくると,子どもたちは自然と授業に乗ってくる。

「役に立つ」と思ってもらうのには,今目の前の学習が近い将来,遠い未来,どのように繋がるのかということを語らなければならないし,実感してもらわなければならない。毎日毎日の授業内容と子どもたちの将来を結びつけて語れるようにいつも考えていたような気がする。

私の国語の授業では原稿用紙ノートを用意させて使うことにした。B5ノートなのだが,1ページが200字詰め原稿用紙となっているのだ。1マス1マスにはっきりと丁寧な字で字を書くことがいかに大切かを分かってもらうためだし,進路を決める試験では,原稿用紙に書く必要が出てきて,その手続きを会得してもらうためだった。

そして,提出物(定期テストも含む)は,必ずボールペンで書くことを課した。自分の字を意識して書いてもらうためだ。そうすることで,人に読ませようという字になり,人に読ませようという文章になる。

というように,ソフトの面,ハードの面で工夫をしていた。

生徒指導部となり,かなり大変な仕事でもあった。自分の子どもが生まれた日に,家庭訪問に行ったこともあった。職員はいろんな人がいたが,若い人たちが多く,目の前の課題に対して試行錯誤して奮闘していた。私は数少ない「中堅」であった。1学年を受け持った時,最初で最後の学年主任をおこなった。そういえば,自分の26年の高校教師経験で学年主任になったのはあの1年だけだった。その学年団は3年間全員が担任を持ち上がり,卒業を迎えたのだな。

当時は学年主任は管理職の指名ではなく,学年団で決めていた。1年目は最年長の私が半自動的になったのだが,2年目からはいろんな人になってもらった方がいいという考えで,毎年交替した。それも受けて入れてくれる,面白い学年だな,と思った。

学年はみんな若かったから,試行錯誤,失敗の連続だったが,失敗しても,問題が起こっても,何とか対処しようという熱気があった。学校全体がそんな感じだったような気もする。

学年の修学旅行は韓国に行った。ちょうど日韓関係がワールドカップ開催前でとてもいい感じの時期だった。「打ち上げ花火」的なものを用意することで,子どもたちをそこまで引っ張っていかねばならぬと思ったからかもしれない。学校集合でバス移動だったのだが,朝の早い時刻の集合でありながら,1人も遅刻しなかったのが驚きだった。

忘年会,歓送迎会,卒業祝賀会,網子別れの会(夏休み前の飲み会)など,定例の宴会は盛り上がるし,それ以外でも声をかけるとかなりの人数が集まる飲み会があった。私は途中で引っ越して,長岡市に住むようになったのだが,長岡市で催しても,たくさんが集まった。フットワークが軽い人がたくさんいたと思う。

歩くスキー大会にたくさんの職員で参加した。初めてノルディックスキーを履いたが,当日は天気もよく,5㎞をなんとか完走できた。いろんな経験ができた時だった。

ずっとあった私の「思い上がり」はどうなったのかというと,これはこれで随所に顔を出したりして,まだまだ静まりはしない。学級経営や生徒指導に関しては,「教師(または私)が決めたことが最善」という思いがあり,それを受け入れない人に対しては頑なな態度を取っていたと思う。いや,教科教育に関してもそうだったのかもしれない。

「教師の思い上がりは捨てなければならない。」という頑なな態度を持った「思いがあり」があった。まだまだ30代で融通が利かなかったのだとも思う。

この時期に群読を知り,国語の授業での有効な表現活動は作文だけではないと知った。授業で取り入れ,録音,録画して,当時ご存命であった家本芳郎先生にデータを送って無理矢理聞いてもらった。それが縁で,日本群読教育の会に入会することとなった。

学校全体がいろんなアイディアを出し,いろんなことをやってみようという雰囲気があった。もちろん実行を許されなかったアイディアはたくさんあるのだが,目の前の問題を我々が解決するんだ!という熱気にあふれた時代だったと思う。

2019-04-24十日町高校時代

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平成6(1994)年度〜8(1997)年度まで,十日町高校に勤務した。十日町市に転居したのだが,アパート住民とのトラブルで半年も経たないうちに六日町に出戻った。その当時も賃貸アパート事情はそれほどよく無く,十日町市内でも見つからず,結局六日町で一番初めに下宿した大家さんの家の隣にある一軒家を借りることになった。1人で3部屋+ダイニングキッチンのある一軒家である。独身だったからできたことかもしれない。しかし,住民トラブルのことを今から考えると,もうちょっと上手く対処することもできたと思うが,当時はやっぱり,「自分が正しい」と思い込んだら,「上手くやること」を考えず,意見を押しつけて対立していたような気がする。そういうことは学校での指導でも現れていた。

相変わらず部活動至上主義は持っていて,1年目はソフトテニス部に配属されたが,2年目は希望してテニス部に異動した。一応実績があったから希望が通ったのだとは思うが,うまく付き合ってくれた部員もいれば,そうではない部員もいた。部活動を引退してから,「いろんな部員の気持ちも考えてほしい」と言われたこともあった。上手く付き合ってくれた部員からのアドバイスだった。こっちの思い込みからの押しつけがまだまだ続いていたことが今となっては分かる。

クラス経営はどうだったのかというと,完全にまだ手探りで,私の指導方針がそのような「おしつけ」だったので,反発する生徒もいたし,受け入れて指示してくれる生徒もいた。完全に2極化していたような気もする。「アクが強かった」ということなんだろう。

学校を取り巻く雰囲気は,まだまだ寛容な時代で,教員集団も,それほどピリピリしていなかった。年に1回1泊2日の職員旅行はあったし,テスト期間中や放課後,スポーツ大会をやっていた。一度テスト期間中に体育館でグラウンドホッケーを習ったことがあった。ホッケーはあれ以来していないが,とても楽しかった。

そんなおっとりした時代だったが,「日の丸君が代問題」の渦中だった。なんだかんだあり,式の時に日の丸をステージ背面に貼り,君が代斉唱を管理職が強行するということが各地でおこなわれてきた時代だった。

大学進学希望者が多い高校だったが,何が何でも大学進学させなければ,という雰囲気もそれほどなかった。クラスで,あまり成績の良くない生徒の保護者と面談していたとき,こちらからの話としては,「もっと勉強時間を多くして,成績を良くして……」という内容ばかりを伝えていたと思うのだが,その子の母親からは「うちの子は,優しくて,小さい子の面倒をよく見てくれて,私はそれでいいと思うんです。」と言われたときに,はっと分かった。

人間として立派なのは,他のことなんか目もくれず,勉強だけに没頭して,成績を上げる人よりも,自分の家族のことを気づかって,他者に優しい人の方だ,と。

今まで自分は子どもをどういう大人に育てようとしていたのか?きっと「自分のように」勉強をして,大学に入って,定職について……という「周りの人の気持ちに気づかない,自分のことばかりを考えている大人」を作ろうとしていたのかもしれない。そんなことよりも身近な周りの人に対して自分の時間を割ける人間の方が立派なんだとわかった。

わかったと言っても,それを実行できているのかというと,それはまた別の話で,30年近くそんな風に生きていて,身についたものは簡単にははがれない。はがれないが,はがそうと意識をするようになったとは思う。

十日町高校時代の教え子に会うと,必ず言われるのは,「先生の『こころ』の授業だけは覚えています。」ということだ。国語の授業はかなり勝手にやらせてもらったので,「こころ」の授業で20時間ぐらい使っていたのだ。「読み研方式」を覚え,物語の授業は,これだ!と没頭し,自分で読み研方式「こころ」をアレンジし,プリントを用意し,がっつりやった気がする。

今から考えると,これもハマる生徒にはハマるが,そうではない生徒には飽き飽きした授業だったんだろうと思う。それでも,私の授業を10年以上経っても覚えていてくれるというのは,教師冥利に尽きるものだ。

六日町高校時代の「大学受験問題演習型授業」から,「言葉の機能着目型」で,物語を読み取る授業にちょっとずつシフトしてきたんだと思う。民間の研究会に出席するようになったのもこの頃からだ。

3年で転勤することになった。1年から勤めていた担任は,卒業を待たず,2年生で他の先生にバトンタッチすることになった。それはとても残念だったが,同僚と結婚することになったのだから,しかたがないことだ。

2019-04-22六日町高校教員時代

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平成も終わろうとしている。様々なメディアで平成が終わることにかこつけて,過去を振り返る特集がなされているが,そういえば,私が教員になったのは平成元年だと気づき,私の教員生活は平成と共にあったのかと,ちょっと感慨深くなったので,自分の教員生活,社会人生活を振り返ろうと思い立った。

昭和最後の日は1月7日だったが,教員採用が決まり,のんきな大学4年生だった私は,その改元の時,自分の部屋でドラゴンクエストをやっており,気づいたら平成になっていた。その時は改元に興味が無かったというよりも,ドラゴンクエストに興味があった。日が変わって平成になった数時間後,そういえば,と思って,その時にテレビでも付けておけばと後悔したものだ。勇者を操って冒険に没頭していた。

平成元年度〜平成5年度(六日町高校教員時代)

平成元年の新潟県南魚沼郡六日町は,空いているアパートが無かった。初めての独り暮らしということで,とても楽しみにしていたのだが,湯沢町のリゾート開発のためか,そもそもアパート自体が少ないのか,学校の斡旋で紹介されたのは,古民家(一軒家)か食事付き下宿だった。期待がしぼみ,結局は六日町の名家の1室に間借りをすることになった。当時はコンビニエンスストアも無く,土,日はまかないも無かったため,土,日に六日町にいるとなると,外食をしなければならない。しかし,夜7時を過ぎると六日町駅前でさえも,店は閉まり,食事を摂ることが不可能となった。だから土曜日の授業が終わり,部活動も終わると,新潟市の実家に1週間の洗濯物を持って自動車で帰った。

仕事はというと,自分は高校の教師であり,生徒を教え諭す役目があるという勘違い野郎で,今の私が接したら全否定するような教師だったと思う。ただし,若かった分,一部生徒からはちやほやされて,思い上がっていたところもあった。思い上がっていたから,自省もなく「いけ好かない」教師を続けていたのかもしれない。

確か,2年目からだと思うが,月1で土曜日が休みになったり,月2で休みになったりしてきた時代だと思う。じゃあ,土曜日に仕事があったからといって,とてもきつかったかというと,そういう感じでもなかった。それは時代がゆったりしていたのかもしれない。かなり教員に対する風当たりは今ほどでも無く,太く鷹揚な感じが許されていた気がする。

職員旅行もあったし,学期末テストが終わったら,授業はほとんどなかったし,テスト中に学年日帰り旅行で近くの温泉にバスで行く,なんてこともなされていた。あの時は年休なんて取っていたっけ?そして夏,冬休みには部活動が無ければ「研修」ということで,年休も取らずに旅行に行っていたような気がする。それが許された時代だった。

私の授業はというと,高校,大学時代に勉強した教科の知識をただ単に与えていただけであり,本当にろくでもない授業をしていた。現代文は解説をして,生徒にはほとんど考えさせなかったし,古典は予習をさせ,その答え合わせをしていただけだった。何か楽しいこと,興味を引くようなことってしていたっけ?結局のところ「できる」生徒しかちゃんと相手にしていず,分からない生徒の理解なんて「怠けている」としか捉えていなかったかもしれない。

そもそも「授業デザイン」なんて全く学んでいなかったし,「生徒指導」,「学級経営]なんかも全く分からなかった。だからちょくちょく生徒とぶつかっていた。当時はまだ「ツッパリ」がいた。そういう生徒たちの心をつかむことなんて,私は全くできていなかった。生徒は相手が教師というだけで,「敬う」べきだと思っていたのだ。

大学に進学する生徒が多かったのだが,「受験対策はしない」と豪語しながら,結局は国語の楽しさなんて伝えられず,端から見ると受験問題を解かせる程度の授業しかできないでいた。

「高校教員の評価は部活動で実績を上げること。」という,分けの分からない妄想に取り付かれていたこともある。部活動顧問になり,「きちんとした指導」ができると,生徒は付いてくると思っていた。といっても,自分がしていたフェンシング部なんてあるはずもなく,いつかフェンシング部を作りたいという妄想も抱いていた。

スキー→剣道→テニス

というように変遷したが,テニスのスクールに入るなどしてテニスの技術をちょっとずつ上げ,テニス部顧問として一応まともに指導できるようになった。しかし,テニス部顧問になったとしても,高校教員としてはかなりずれていたような気がする。部活動は学校の組織とはいえ,カリキュラム外である。授業がまともにならなければ,まともな教師になったとはいえないのだ。

それでも部活動顧問に対するとらわれは,かなりの間続くことになる。

国語のある先輩の先生から,「あなたは,自分が一番だと考えているでしょう?それじゃだめなんだよ。」と飲み会の席で指摘されたことがあった。その時は反発したが,上手く言い当てていると,その後思うことになる。

六日町高校には,5年間お世話になることになった。

2018-12-08自由の森学園

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久米宏のラジオなんですけどの「今週のスポットライト」に,自由の森学園(埼玉県飯能市)の理事長が登場した。なんと,星野源は自由の森学園の卒業生だそうだ。

久米さんの鋭いつっこみに,言葉を選びながら,子どもたちに変な被害が及ばないように発言している鬼沢真之さんがとても真摯な人なんだという印象を受けた。

今までの中学校や高校の枠をとっぱらった学校を作っているようだ。テスト無し,高速無し,カリキュラムも「一般的な」学校とはちょっと違うようだ。寮も併設していて,4月からは寮の給湯器は薪で加熱するらしい。電気も100%再生可能エネルギーに切りかえたそうだ。

これから日本や世界は大転換期を迎える。今までの知識をため込んでおけば大学に入れて,仕事ができてという時代では無くなってくる。そんな中,教員の意識改革だけで子どもたちに大転換期を乗り切れる力がつくのか?根本的なカリキュラム変革が必要なのでは?と思ってしまう。教科学習だけでは無く,学校生活から全てのカリキュラム変革だ。

「今までの知識をため込む学習はしていません。」とやんわりと多くの学校の評価方法を批判しているところが魅力的。一体どういう授業をしているんだろう?視察に行ってみたい。

2018-06-29進路指導について

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以前に勤務していた工業高校の同僚会でいろんな話を聞いた。そこで,小学校,中学校の先生,普通教科の高校の先生がいかに専門高校のことを知らないかという話になった。

それはその通りで,小学校,中学校,普通教科の高校の先生は,ほとんどが大学の教育学部に進む。ほとんどの人たちは普通高校からその大学に進む。全く専門高校に触れないで暮らしている。私だってそうだった。商業高校,工業高校に勤めることで,初めて知ったことはたくさんあった。

ちょっと前の日本は今以上に「普通科志向」が強く,専門高校を無くしてしまおうという動きもあった。「専門高校があるから,そこに進まなければいけない子どもがいて,かわいそうだ。だから無くしてしまおう。」本当にそんな風潮があった。「これからの日本,これからの教育」(前川喜平/寺脇研)ちくま新書 に書いてある。とんでもないことだ。

寺脇研さんは文科省官僚時代「それはおかしい」ということで,全国の専門高校を視察に行き,各専門高校の教育内容の素晴らしさを知り,残すように動いたそうだ。

小・中の先生方は,専門高校のことをあまり知らず,偏差値だけで進路指導するから,専門高校を低く見て,ますます「普通科志向」が強まる。

専門高校の学校説明会で,「今年は○○大学に◎名入った」なんていう情報しか伝えないと,専門高校の教育的価値が伝わらない。

ある工業高校では,卒業後,大手製造メーカー就職し,製造職ではなく,管理部門に何人も就いているというのだ。大卒でさえ,そこに入るのは難しいのに。何でもかんでも普通科に行かせ,大学に行かせても,そのメーカーには就職できない場合が多い。近くの高校でそのパイプがあるのだったら,その高校に進学した方がよっぽどいいことになる。中学校の進路指導はそのことも想定して指導できたほうがいい。しかしそんな情報はあまり伝わらない。

なるほど,と思う話も聞いた。今,建設ラッシュで建物が増えているのだが,この建設ラッシュは必ず一段落する。その時必要な人材は何か。インフラをメンテナンスする技術を持っている人だ。メンテナンスする人がいなければ,建物は機能しない。建物はたくさんあるが,メンテナンスする人が不足するということになる。それの技術を持っている価値がどんどん高くなるということになる。

長期的な視野を持って進路指導ができると,本当に目の前の子どものためになる。


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2018-01-16エクリチュール (1)

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最近「エクリチュール」に関心を持っている。「エクリチュール」は一般的には「文字言語」を指すが,内田樹さんはロラン・バルト著「零度のエクリチュール」の叙述を元に

社会的に規定された言葉の使い方

と定義している。そして

社会的言語運用がきびしく制式化されており、自分が所属する社会集団に許されたエクリチュール以外の使用が禁止されているのは階層社会の際立った特徴である。

と述べている。本義は「文字言語」のことだが,この定義でいえば主に「音声言語」のことを指しているようだ。

私は現代日本に生きていて,あんまりそれを感じたことはなかったけれど,内田樹さんはフランスに学生と研修で行ったとき,階級により使う言葉(使ってはいけない言葉)が限定されていて,それが問題処理判断能力や,人の持つ意識を限定していると述べている*1

英語を始め,外国語に疎い私は全くそんなことはわからないのだが,日本でもかつて,職業や階層によって使える言葉が限定されていたなぁと思う。今再放送している「花子とアン」で,主人公ハナが,子どもの頃,女学校に入学して,徹底的に白鳥さん(ハリセンボンの春菜)から甲府弁をなおされ,いわゆる「お嬢様言葉」に矯正させられていた。また,時代劇を観ていると,武士階級の返事の仕方は「はい」だが,その他は「へい」となっていた。

英語の文法構造と日本語の文法構造は違う。思考は言語によるところが大きいから,思考構造も違い,ものの見方考え方も違ってくるということで,英語教育にも興味を持ち始めた。

そこで文献を漁っていたところで,「言語社会化論」(バーンスティン・萩原元昭編訳 1981 明治図書)に巡り会った。

英国の中産階級と労働者階級の話し言葉を分析し,その違いと思考の違いについて述べている。

大きく分けると「共用言語」と「定式言語」があり,労働者は前者を使用する割合がほとんどであり,中産階級は両者を使い分けているというのだ。簡単にいうと,「共用言語」はある特定の集団で暗黙の了解のうちに使える言語であり,「定式言語」は,文脈を知らない人にも理解させられる言語である。

「共用言語」の特徴の1つとして,次のようになると述べている。

共用言語の構造が,強い閉鎖的な社会関係をさらに強固なものとするところから、その話し手は、ある種の活動を通して、集団、およびその集団の形態や野心に対し、強い忠義心や忠誠心を示すものと思われる。そしてそのかわり、彼は、自分たちのものとは異なった言語形式—ちなみに、言語形式は、それを持っている集団に独特な社会的取り決めを象徴的に表している—をもつ他の社会集団に対して排他的になったり、おそらくそれと対立したりする、という代償を払っているものと思われる。つまり、共用言語の構造は、個人を集団から孤立させるような自他の違いについての経験を、ことばで表現することを差し止め、そして自らを脅かす恐れのある認知的、感情的状態に脈絡を与えるはたらきをするのである。(p.74)

これって,「仲間内の言葉」に当てはまることだ。その最たるものが仲間内で使う言葉(スラング)で,仲間性を強化し,他者を排除するといいうことは,現代日本でもそこら中で行われている。

そして,バースティンは,スラングを使うことで,罪の意識を減じているという例も挙げている。「正当な理由なく欠席する」(このニュアンスの正式な日本語,なんでしょう?)を「サボる」というようなものだ。「窃盗」を「万引き」と言ったり,「売春」を「援交」と言ったりするものだろう。

さて,エクリチュールが先か,社会階級が先かという論が当然出てくる。「その社会階級内で使われているから,その言語構造がある」とするか,「その言語構造から脱することができないからその社会階級から外に出られない。」というものだ。

バースティンは

言語形式は、何が、どのように学習されるのかを強く規定し、したがって将来の学習にも影響をおよぼすのである。こうした見地から、この論文では共用言語によって助長される行動について分析してきたのである。ところで、その場合の分析方法には本質的に循環論的なところがある、と思われるかもしれない。方法として、われわれは言語使用を分析し、そして社会的、心理的な行動を推論する。しかし、後者は初めから前者を規定しているいるのである。—なぜならば、言語の意味機能が社会構造だからである。(p.84)

と述べ,社会的,心理的な行動は言語使用を規定し,それが将来の学習に影響を及ぼすと言っている。つまり,循環している。

ということは,その循環を断ち切ると,別の世界が開ける可能性があるといいうことだろうか?

そこに教育の役割,言語活動の役割が見えてくるような気がする。この項,たぶんつづく。

*1:「街場の文体論」文春文庫 2016,pp.131-132