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Pay it Forward , By gones 片桐史裕 このページをアンテナに追加 RSSフィード

上越教育大学教職大学院准教授片桐史裕です。
2016年3月まで27年間新潟県の高校国語教師を勤めていました。
映画のことや,教職のことについて書いています。
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教室『学び合い』フォーラム
第15回(2019年)《海》,《山》は
2019/8/3〜4に福岡県,
2019/11/2〜4に長野県でおこないます。→長野の会は中止になりました。
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2019-04-26堀之内高校時代

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平成9(1997)年度〜13(2001)年度まで,堀之内高校で勤務した。当時魚沼は郡制をしいており,これで,南魚沼,中魚沼,北魚沼を制覇(?)することとなった。

当時堀之内高校は全日制普通科だった。現在は改組して単位制となっている。普通科といっても,2クラス商業クラスがあり,私はそこの担任となった。それがきっかけとなり,商業教育にも関心が向くようになった。

十日町高校時代に「子どもたちに本当に必要な教育」が必要だと思うきっかけになったが,具体的にどんなものかはまだつかめずにいた。今までおこなっていた受験対策の勉強を薄めた(優しくした)授業をやっても,全く生徒たちは乗ってこなかった。それはそうだ,子どもたちは必要だとは思っていなかったのだから。そして悩む日々が続いたのだが,教科の学習そのものを「面白い」と思ってもらう授業内容と,教科の学習が「役に立つ」と思ってもらう授業を考え続けた。

「面白い」と思ってもらう授業とは,作品自体の「面白さ」もあるし,いろんなことを発見する「面白さ」もある。そして次の段階として,分からないことを解るようになるという「面白さ」がある。そこまで登ってくると,子どもたちは自然と授業に乗ってくる。

「役に立つ」と思ってもらうのには,今目の前の学習が近い将来,遠い未来,どのように繋がるのかということを語らなければならないし,実感してもらわなければならない。毎日毎日の授業内容と子どもたちの将来を結びつけて語れるようにいつも考えていたような気がする。

私の国語の授業では原稿用紙ノートを用意させて使うことにした。B5ノートなのだが,1ページが200字詰め原稿用紙となっているのだ。1マス1マスにはっきりと丁寧な字で字を書くことがいかに大切かを分かってもらうためだし,進路を決める試験では,原稿用紙に書く必要が出てきて,その手続きを会得してもらうためだった。

そして,提出物(定期テストも含む)は,必ずボールペンで書くことを課した。自分の字を意識して書いてもらうためだ。そうすることで,人に読ませようという字になり,人に読ませようという文章になる。

というように,ソフトの面,ハードの面で工夫をしていた。

生徒指導部となり,かなり大変な仕事でもあった。自分の子どもが生まれた日に,家庭訪問に行ったこともあった。職員はいろんな人がいたが,若い人たちが多く,目の前の課題に対して試行錯誤して奮闘していた。私は数少ない「中堅」であった。1学年を受け持った時,最初で最後の学年主任をおこなった。そういえば,自分の26年の高校教師経験で学年主任になったのはあの1年だけだった。その学年団は3年間全員が担任を持ち上がり,卒業を迎えたのだな。

当時は学年主任は管理職の指名ではなく,学年団で決めていた。1年目は最年長の私が半自動的になったのだが,2年目からはいろんな人になってもらった方がいいという考えで,毎年交替した。それも受けて入れてくれる,面白い学年だな,と思った。

学年はみんな若かったから,試行錯誤,失敗の連続だったが,失敗しても,問題が起こっても,何とか対処しようという熱気があった。学校全体がそんな感じだったような気もする。

学年の修学旅行は韓国に行った。ちょうど日韓関係がワールドカップ開催前でとてもいい感じの時期だった。「打ち上げ花火」的なものを用意することで,子どもたちをそこまで引っ張っていかねばならぬと思ったからかもしれない。学校集合でバス移動だったのだが,朝の早い時刻の集合でありながら,1人も遅刻しなかったのが驚きだった。

忘年会,歓送迎会,卒業祝賀会,網子別れの会(夏休み前の飲み会)など,定例の宴会は盛り上がるし,それ以外でも声をかけるとかなりの人数が集まる飲み会があった。私は途中で引っ越して,長岡市に住むようになったのだが,長岡市で催しても,たくさんが集まった。フットワークが軽い人がたくさんいたと思う。

歩くスキー大会にたくさんの職員で参加した。初めてノルディックスキーを履いたが,当日は天気もよく,5㎞をなんとか完走できた。いろんな経験ができた時だった。

ずっとあった私の「思い上がり」はどうなったのかというと,これはこれで随所に顔を出したりして,まだまだ静まりはしない。学級経営や生徒指導に関しては,「教師(または私)が決めたことが最善」という思いがあり,それを受け入れない人に対しては頑なな態度を取っていたと思う。いや,教科教育に関してもそうだったのかもしれない。

「教師の思い上がりは捨てなければならない。」という頑なな態度を持った「思いがあり」があった。まだまだ30代で融通が利かなかったのだとも思う。

この時期に群読を知り,国語の授業での有効な表現活動は作文だけではないと知った。授業で取り入れ,録音,録画して,当時ご存命であった家本芳郎先生にデータを送って無理矢理聞いてもらった。それが縁で,日本群読教育の会に入会することとなった。

学校全体がいろんなアイディアを出し,いろんなことをやってみようという雰囲気があった。もちろん実行を許されなかったアイディアはたくさんあるのだが,目の前の問題を我々が解決するんだ!という熱気にあふれた時代だったと思う。