Hatena::Groupmanabiai

Pay it Forward , By gones 片桐史裕 このページをアンテナに追加 RSSフィード

上越教育大学教職大学院准教授片桐史裕です。
2016年3月まで27年間新潟県の高校国語教師を務めていました。
映画のことや,教職のことについて書いています。
研究室ページ katagiri-lab

iPhone版はこちら

niagara@cocoa.ocn.ne.jp

教室『学び合い』フォーラム
第15回(2019年)《海》,《山》は
2019/8/3〜4に福岡県,2019/11/2〜4に長野県でおこないます。
manabiainu
http://manabiai.jimdo.com

2019-04-22六日町高校教員時代

[]六日町高校教員時代 六日町高校教員時代 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 六日町高校教員時代 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 六日町高校教員時代 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

f:id:F-Katagiri:20190422152834j:image

平成も終わろうとしている。様々なメディアで平成が終わることにかこつけて,過去を振り返る特集がなされているが,そういえば,私が教員になったのは平成元年だと気づき,私の教員生活は平成と共にあったのかと,ちょっと感慨深くなったので,自分の教員生活,社会人生活を振り返ろうと思い立った。

昭和最後の日は1月7日だったが,教員採用が決まり,のんきな大学4年生だった私は,その改元の時,自分の部屋でドラゴンクエストをやっており,気づいたら平成になっていた。その時は改元に興味が無かったというよりも,ドラゴンクエストに興味があった。日が変わって平成になった数時間後,そういえば,と思って,その時にテレビでも付けておけばと後悔したものだ。勇者を操って冒険に没頭していた。

平成元年度〜平成5年度(六日町高校教員時代)

平成元年の新潟県南魚沼郡六日町は,空いているアパートが無かった。初めての独り暮らしということで,とても楽しみにしていたのだが,湯沢町のリゾート開発のためか,そもそもアパート自体が少ないのか,学校の斡旋で紹介されたのは,古民家(一軒家)か食事付き下宿だった。期待がしぼみ,結局は六日町の名家の1室に間借りをすることになった。当時はコンビニエンスストアも無く,土,日はまかないも無かったため,土,日に六日町にいるとなると,外食をしなければならない。しかし,夜7時を過ぎると六日町駅前でさえも,店は閉まり,食事を摂ることが不可能となった。だから土曜日の授業が終わり,部活動も終わると,新潟市の実家に1週間の洗濯物を持って自動車で帰った。

仕事はというと,自分は高校の教師であり,生徒を教え諭す役目があるという勘違い野郎で,今の私が接したら全否定するような教師だったと思う。ただし,若かった分,一部生徒からはちやほやされて,思い上がっていたところもあった。思い上がっていたから,自省もなく「いけ好かない」教師を続けていたのかもしれない。

確か,2年目からだと思うが,月1で土曜日が休みになったり,月2で休みになったりしてきた時代だと思う。じゃあ,土曜日に仕事があったからといって,とてもきつかったかというと,そういう感じでもなかった。それは時代がゆったりしていたのかもしれない。かなり教員に対する風当たりは今ほどでも無く,太く鷹揚な感じが許されていた気がする。

職員旅行もあったし,学期末テストが終わったら,授業はほとんどなかったし,テスト中に学年日帰り旅行で近くの温泉にバスで行く,なんてこともなされていた。あの時は年休なんて取っていたっけ?そして夏,冬休みには部活動が無ければ「研修」ということで,年休も取らずに旅行に行っていたような気がする。それが許された時代だった。

私の授業はというと,高校,大学時代に勉強した教科の知識をただ単に与えていただけであり,本当にろくでもない授業をしていた。現代文は解説をして,生徒にはほとんど考えさせなかったし,古典は予習をさせ,その答え合わせをしていただけだった。何か楽しいこと,興味を引くようなことってしていたっけ?結局のところ「できる」生徒しかちゃんと相手にしていず,分からない生徒の理解なんて「怠けている」としか捉えていなかったかもしれない。

そもそも「授業デザイン」なんて全く学んでいなかったし,「生徒指導」,「学級経営]なんかも全く分からなかった。だからちょくちょく生徒とぶつかっていた。当時はまだ「ツッパリ」がいた。そういう生徒たちの心をつかむことなんて,私は全くできていなかった。生徒は相手が教師というだけで,「敬う」べきだと思っていたのだ。

大学に進学する生徒が多かったのだが,「受験対策はしない」と豪語しながら,結局は国語の楽しさなんて伝えられず,端から見ると受験問題を解かせる程度の授業しかできないでいた。

「高校教員の評価は部活動で実績を上げること。」という,分けの分からない妄想に取り付かれていたこともある。部活動顧問になり,「きちんとした指導」ができると,生徒は付いてくると思っていた。といっても,自分がしていたフェンシング部なんてあるはずもなく,いつかフェンシング部を作りたいという妄想も抱いていた。

スキー→剣道→テニス

というように変遷したが,テニスのスクールに入るなどしてテニスの技術をちょっとずつ上げ,テニス部顧問として一応まともに指導できるようになった。しかし,テニス部顧問になったとしても,高校教員としてはかなりずれていたような気がする。部活動は学校の組織とはいえ,カリキュラム外である。授業がまともにならなければ,まともな教師になったとはいえないのだ。

それでも部活動顧問に対するとらわれは,かなりの間続くことになる。

国語のある先輩の先生から,「あなたは,自分が一番だと考えているでしょう?それじゃだめなんだよ。」と飲み会の席で指摘されたことがあった。その時は反発したが,上手く言い当てていると,その後思うことになる。

六日町高校には,5年間お世話になることになった。