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上越教育大学教職大学院准教授片桐史裕です。
2016年3月まで27年間新潟県の高校国語教師を務めていました。
映画のことや,教職のことについて書いています。
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教室『学び合い』フォーラム
第15回(2019年)《海》,《山》は
2019/8/3〜4に福岡県,2019/11/2〜4に長野県でおこないます。
manabiainu
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2019-04-30新潟中央高校時代

[]新潟中央高校時代 新潟中央高校時代 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 新潟中央高校時代 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 新潟中央高校時代 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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平成13(2011)年度〜平成27(2015)年度は,新潟中央高校に勤務した。転勤したての即担任,高校では,ほぼあり得ないことなんだけれど,新潟中央高校は,そういうことがあると昔から聞いていたので,覚悟はしていたし,結果,担任を持ててよかったと思う。

赴任した年の3月11日に東日本大震災が起こった。ちょうど前任校での合格発表の年だった。甚大な被害が襲い,その夜寝て,目覚めたときには「夢であってほしい」と思った。今後の私の人生はこの被害から復興するために教育をおこなおうと決意した。今もその決意は存続しているか?

赴任してから3カ月は休みがなかった。部活動,補習など新任者にあてがわれ,部活動顧問全員が新任者であり,なぜか県大会の主幹校でもあった。大学進学至上主義が一部管理職と主幹教師に浸透しており,私の授業への締めつけ,圧力,批判などがあり,こんな状態で仕事をし続けていたら,鬱になっていくんだろうなと本気で思うようになった。

自転車通勤をするようになったり,激務からか,1カ月2㎏体重が減っていった。このままでは自分の体がなくなるのでは?と思ったが,人間とはよくできているもので,ある程度で踏みとどまった。

救われたのは生徒たちがとても気心のいい人たちだったということ。こちらの指示に的確に反応してくれて,ダメなものはダメと言ってくれ,担任を持ったからこそ,こういう関係を築けたのだと思った。

大学進学至上主義は,きっともっと前からあったのだろうけれど,渦中にいきなり放り込まれたこともあり,対応ができなかった。というか,異常に反発してしまった。学校5日制の補填としておこなわれる土曜講習,退職間際とったアンケートの中では最も生徒に「効果がない」と回答されたものだった。たまの土曜に午前中,問題演習をするだけ。「5日制に対応していますよ。」とのアリバイ作りをしているだけ。「土曜講習に出ない人は大学進学を希望しない人だ。」との半脅し文句で講習に参加させていた。そして効果を実感させていない。結果にコミットしていないのだ。現在はそれらの反省で,問題演習だけではなく,進路講演会やワークショップなど,いろんな活動をしていると聞く。あの時は過渡期だったんだろうと思う。

国語科主任が漢字ばかり配られたプリントを学年全員分刷って配布せよという。なんだと思ったら,センター試験の漢文の問題で問われやすい漢字だという。そんなのを時間をかけて覚えて,1,2点上がったからといって,何になるんだろう?と思う。しかしその国語科主任は「その1,2点が大切なんだ,1,2点で合否が決まる」と本気で思っていたらしい。そんなことよりも,将来のことを語るとか,大学生活の面白さを語るとか,そっちの方が有効なんじゃないだろうか?「目の前の1,2点を取る=将来が約束される」という短絡的な思考回路が教育界に蔓延していた時代だったのかもしれない。

内田樹先生は次のようにいう

僕が大学に在職していた終わりの頃には「質保証」とか「工程管理」とか「PDCAサイクルを回す」というような製造業の言葉づかいがふつうに教育活動について言われるようになりました。缶詰を作るようなつもりで教育活動が行われている。だから、規格を厳守する、効率を高める、トップダウン・マネジメントを徹底させるというようなことが1990年代から当たり前のように行われるようになりました。

 この転換によって、「子どもたちのどのような潜在可能性が、いつ、どういうかたちで開花するかは予見不能である」という農作業においては「当たり前」だったことが「非常識」になりました。「どんな結果が出るか分からないので、暖かい目で子どもたちの成長を見守る」という教師は「工程管理ができていない」無能な教師だということになった。それよりも、早い段階で、どの種子からどんな果実が得られるかを的確に予見することが教師の仕事になった。「何が生まれるかわからない種子」や「収量が少なそうな種子」や「弱い種子」は「バグ」としてはじかれる。品質と収量が予見可能な種子にだけ水と肥料をやる。例の「選択と集中」です。

『善く死ぬための身体論』のまえがき 2019-04-15 lundi

学校教育が子どもの成長を「待てなく」なった時代なのだと思う。卒業時に「目に見える結果」を出せなければ,失敗とみなされる。失敗かどうかは本人が決めることなのに。卒業後,数年経って「新潟中央高校に通ってよかった」と思ってくれているかどうか。そこが問題なのだが,「国公立大学に○人進学したから成功だ(失敗だ)」と本気で思っている「製造者」が教育現場にはたくさんいる。

そんな職場でも,同志はたくさんおり,志を同じくして(傷をなめ合いながら)働けたので,何とかやっていけた(「同志」の別名「被害者の会」)。また,その時のことをネタに本を1冊書けたので,今となってはいい経験だとも思う。また,何度も言うけれど,生徒たちがとても心意気のいい子たちばかりで,もちろん反発をしてくる人もいたけれど,きちんと「正式に」反発をしてくるし,私のことを「同志」と呼んでくれる人もいたりして,生徒たちに救われたところもあった。

5年目に大学教員募集の話があって,応募したわけなのだが,「このままでは自分が自分でいられなくなるかもしれない。」と思ったことも応募の要因だったのかもしれない。工業製品を作るのではなく,人間が成長する手助けをする仕事に関わる人を育てていきたいと思ったのだった。

こんな感じで自分の高校教師時代を書くことで,平成を振り返ってみた。なんとか平成のうちに書き終えた。

rx178gmk2rx178gmk22019/04/30 19:06私は平成の終わりに何も残すことができませんでした。ただ、5月1日は、ちょっとだけ大切にしたいと思っています。私も平成元年採用です。教師人生がこの時代とともにあったというのは同じですね。

2019-04-29新潟県央工業高校時代

[]新潟県央工業高校時代 新潟県央工業高校時代 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 新潟県央工業高校時代 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 新潟県央工業高校時代 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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平成16(2004)年度〜平成22(2010)年度は,新潟県央工業高校に勤務した。転勤した年に水害に見舞われ,新潟県央工業高校もかなりの被害を受けた。完全に校舎周りは水没し,教務室は1階にあったため,様々な書類が水につかり,紛失した。

高校では,朝の水が増えてきた段階で生徒は自宅待機としたので,来た生徒をどんどん帰し,生徒が学校に何日も宿泊するということはなかった。初期対応がとてもよかったと思う。しかし,近隣校では,教室に待機させ,自習をさせていたところがあったという。結果,生徒は家に帰ることができず,電気も水もまともに通っていない学校に泊まることになってしまった。これは,学校が「生徒を抱え込む」という時代の雰囲気が出ていたような気がする。

何でもかんでも学校がおこない,大学受験も,補習も,休みの日の行動さえも学校の指導下に置こうとし,その後オーバーフローして,「ブラック」と言われる勤務状態に現在なっている。そもそも,学校週5日制は,学校から子どもたちを解放させるためにできたのではないか?

特に大学進学者数が学校の評価だと勘違いする風潮が強くなってきていた時代でもあるのでは?1校に1人でも国公立大学進学者がいたら,いなかった学校よりも評価が高いと思っている管理職には辟易してしまった。たまたま優秀な生徒が入学し,その学校の教育力により学力を伸ばせたわけでもないかもしれないのに,「よかった,よかった」と思ってしまう。

もちろん,その生徒の進路希望を知っていて,それを叶えたことに対して「よかった」と思うのは当たり前なのだが,それで学校の評価がよくなるだろうから「よかった」と感じるのは,いくら管理職とはいえ,教育者なのか?とも思った。そう思わされているところもあるんだろうけれど。

私はというと,転勤したては,2年間の内地留学から現場復帰し,頭でっかちになっていたと思う。理論では「こうやれば上手く行く」というものが,現場に当てはめると上手く行かない。上手く行かないのは,相手が悪いせいだとまたまた「思い上がり」が芽生えていた。現場からたった2年間でも離れるというのは,これほど感覚が鈍るものかと,その後実感する。方法論に固執し,その先にある目的を見失っていた部分があったと思う。

堀之内高校時代に意識した「面白い」と思うこと,「役に立つ」と思うことを大切にすることに回帰し,授業実践を続けた。そうすると徐々に授業が成り立って来る。新潟県央工業高校は体育が厳しいと有名なのだが,ある卒業生に「体育と国語だけは息が抜けない。」と言われたことが,自分の勲章でもある。

まだまだ思い込みを押しつける性格は残っていて,生徒指導や学級経営でも,反発を食らうこともあった。しかし,一方で「待つ」ということもできるようになって,「今,目の前で指導して,すぐに改善させなければならない」ということはないんだ,と分かってきた。そのうち,いつか,今より良い方向に向かえばいいのだと「待つ」ことができるようになったのも,子どもができて,歳を食って経験を積んだからなのだろうか?

勤務した最終年,不祥事が起こり,保護者説明会を開くということがあった。雪の多かった年で,車で来る人のために駐車場を確保しなければならない。正式な呼びかけではなく,「雪かきしないといけないよね。」という感じで心ある職員が「よしっ!」と集まり,夕方,汗だくになって雪かきをした。損得ではなく,今,やるべきことは何か?ということで体が動くというのが,教員にとって大切なんだとも思う。それが教員集団の「和」に繋がっているんだとも思った。いい職場というのは,職員集団が互いを認め合うところなんだと思った。

2019-04-28上越教育大学内地留学時代

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平成14(2002)年度〜平成15(2003)年度は,上越教育大学修士課程*1に内地留学をした。在籍校は高田商業高校だった。後年,高田商業高校には学校支援プロジェクトでお世話になるので,縁が深い学校だ。

Windows95が発売され,インターネットが浸透していき,パソコン通信(PCVANやニフティーサーブ)で情報交換をする流れから,パソコン通信もすたれたあと,たくさんのメーリングリストに加入するようになった。全国の教師たちと情報交換ができるようになり,堀之内高校時代にはその流れでNHKの番組から取材が来るようになった。

それはさておき,メーリングリストで知り合った方が新潟県の高校の先生で,内地留学中だったので,情報を頂き,上越教育大学に行ってみたいと思うようになった。今まで様々な学校で様々な生徒や様々なカリキュラムの元で実践をしてきて,ある程度の自身もあったが,理論的なことはからきしだったので,そっちの方面も学んでみたいと思った。

思い立って内地留学のことを調べてみたら,なんと学校の掲示板に貼ってあり,申し込み締め切りが1週間後ぐらいだった。慌てて根回しやら,カミさんへのお願いやら,手続きやらをして,結果派遣してもらえることになった。

上越教育大学に行って驚いたのは,様々な人がいるということ。高校卒業後の学生はもちろんだが,同期の院生は,全国各地から,様々な校種から来ている。その人たちと協働して学んだことが今の財産となっている。

2年間,自分の好きなことに没頭して実践,研究できるというのはすばらしい経験だった。しかし,自分の至らなさを突きつけられるところもあった。全国からすばらしい教員が集まっているから,自ずと比較してしまう。自分の足らないことも明らかになる。

十日町高校時代の教え子が,小学校教員となり,上越地区の小学校に勤めていたので,いろいろ相談に来る。授業も観に行ったこともあった。その先生が生徒指導のことで悩んで相談に来るという。小学校のことだから,私にはなかなかピンと来ないこともあり,同期の小学校教師の院生にも相談をお願いすることになった。持つべきものは頼れる同期だし,なんとなく自分の限界を感じ,その時には助けを頼むというのが当たり前にできるようになったような気がする。

学校教師は,専門的な資質能力を持ちながらも,汎用的な資質能力も持たなければならない。その両方を兼ねそなえるためには,「助けてもらう」という当たり前の「能力」が必要だった。何でも一人でやらねば一人前とみなされないのではないか?という誤解や気負いを勝手に持っていたのだが,そんなことを払拭できただけでも,大学に行った甲斐があったと思う。

また,学卒院生と一緒に学ぶのだが,学卒院生から学ぶことがとても多く,若い視点からの意見は,鋭いこともたくさんあって,自分よりも経験の少ない人から学ぶということが,これほど重要なことかと思うようになった。この経験を機に「思い上がり」は,ちょっとずつ薄らいでいったのか?とも思うが,完全になくなったわけでもない。

長岡市から通っていたのだが,1年目は特急で直江津駅まで行き,直江津駅に駐車場を借りてそこから自動車で向かった。特急券の回数券があって,それを使っていたが,節約のために帰りは鈍行に乗るということもしばしばあった。2年目は駐車場代もバカにならず,毎日大学に行かなくてもいいということで,自動車通勤をすることにした。飲み会の時にお茶研やスタジオにエアマットを持ち込んで,寝たこともあったなぁ。スタジオには絶対何かがいたと思う。

ほとんど現場から離れていたので,その時の教育事情がどのようなのか,ほとんど感じていなかったかもしれない。ワールドカップの開催の年で,新潟でも試合が開かれ,どうしてその時に試合に行かなかったのか,と今でも悔やまれる。

研究は「共同作文編集」についておこない,「雑談をしている方が,クリティカルなアドバイスが多い」というものだった。2年間はとても短く,自身と不安をもとに,現場に戻ることになる。

*1:上越教育大学大学院学校教育研究科修士課程学校教育専攻

2019-04-26堀之内高校時代

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平成9(1997)年度〜13(2001)年度まで,堀之内高校で勤務した。当時魚沼は郡制をしいており,これで,南魚沼,中魚沼,北魚沼を制覇(?)することとなった。

当時堀之内高校は全日制普通科だった。現在は改組して単位制となっている。普通科といっても,2クラス商業クラスがあり,私はそこの担任となった。それがきっかけとなり,商業教育にも関心が向くようになった。

十日町高校時代に「子どもたちに本当に必要な教育」が必要だと思うきっかけになったが,具体的にどんなものかはまだつかめずにいた。今までおこなっていた受験対策の勉強を薄めた(優しくした)授業をやっても,全く生徒たちは乗ってこなかった。それはそうだ,子どもたちは必要だとは思っていなかったのだから。そして悩む日々が続いたのだが,教科の学習そのものを「面白い」と思ってもらう授業内容と,教科の学習が「役に立つ」と思ってもらう授業を考え続けた。

「面白い」と思ってもらう授業とは,作品自体の「面白さ」もあるし,いろんなことを発見する「面白さ」もある。そして次の段階として,分からないことを解るようになるという「面白さ」がある。そこまで登ってくると,子どもたちは自然と授業に乗ってくる。

「役に立つ」と思ってもらうのには,今目の前の学習が近い将来,遠い未来,どのように繋がるのかということを語らなければならないし,実感してもらわなければならない。毎日毎日の授業内容と子どもたちの将来を結びつけて語れるようにいつも考えていたような気がする。

私の国語の授業では原稿用紙ノートを用意させて使うことにした。B5ノートなのだが,1ページが200字詰め原稿用紙となっているのだ。1マス1マスにはっきりと丁寧な字で字を書くことがいかに大切かを分かってもらうためだし,進路を決める試験では,原稿用紙に書く必要が出てきて,その手続きを会得してもらうためだった。

そして,提出物(定期テストも含む)は,必ずボールペンで書くことを課した。自分の字を意識して書いてもらうためだ。そうすることで,人に読ませようという字になり,人に読ませようという文章になる。

というように,ソフトの面,ハードの面で工夫をしていた。

生徒指導部となり,かなり大変な仕事でもあった。自分の子どもが生まれた日に,家庭訪問に行ったこともあった。職員はいろんな人がいたが,若い人たちが多く,目の前の課題に対して試行錯誤して奮闘していた。私は数少ない「中堅」であった。1学年を受け持った時,最初で最後の学年主任をおこなった。そういえば,自分の26年の高校教師経験で学年主任になったのはあの1年だけだった。その学年団は3年間全員が担任を持ち上がり,卒業を迎えたのだな。

当時は学年主任は管理職の指名ではなく,学年団で決めていた。1年目は最年長の私が半自動的になったのだが,2年目からはいろんな人になってもらった方がいいという考えで,毎年交替した。それも受けて入れてくれる,面白い学年だな,と思った。

学年はみんな若かったから,試行錯誤,失敗の連続だったが,失敗しても,問題が起こっても,何とか対処しようという熱気があった。学校全体がそんな感じだったような気もする。

学年の修学旅行は韓国に行った。ちょうど日韓関係がワールドカップ開催前でとてもいい感じの時期だった。「打ち上げ花火」的なものを用意することで,子どもたちをそこまで引っ張っていかねばならぬと思ったからかもしれない。学校集合でバス移動だったのだが,朝の早い時刻の集合でありながら,1人も遅刻しなかったのが驚きだった。

忘年会,歓送迎会,卒業祝賀会,網子別れの会(夏休み前の飲み会)など,定例の宴会は盛り上がるし,それ以外でも声をかけるとかなりの人数が集まる飲み会があった。私は途中で引っ越して,長岡市に住むようになったのだが,長岡市で催しても,たくさんが集まった。フットワークが軽い人がたくさんいたと思う。

歩くスキー大会にたくさんの職員で参加した。初めてノルディックスキーを履いたが,当日は天気もよく,5㎞をなんとか完走できた。いろんな経験ができた時だった。

ずっとあった私の「思い上がり」はどうなったのかというと,これはこれで随所に顔を出したりして,まだまだ静まりはしない。学級経営や生徒指導に関しては,「教師(または私)が決めたことが最善」という思いがあり,それを受け入れない人に対しては頑なな態度を取っていたと思う。いや,教科教育に関してもそうだったのかもしれない。

「教師の思い上がりは捨てなければならない。」という頑なな態度を持った「思いがあり」があった。まだまだ30代で融通が利かなかったのだとも思う。

この時期に群読を知り,国語の授業での有効な表現活動は作文だけではないと知った。授業で取り入れ,録音,録画して,当時ご存命であった家本芳郎先生にデータを送って無理矢理聞いてもらった。それが縁で,日本群読教育の会に入会することとなった。

学校全体がいろんなアイディアを出し,いろんなことをやってみようという雰囲気があった。もちろん実行を許されなかったアイディアはたくさんあるのだが,目の前の問題を我々が解決するんだ!という熱気にあふれた時代だったと思う。

2019-04-24十日町高校時代

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平成6(1994)年度〜8(1997)年度まで,十日町高校に勤務した。十日町市に転居したのだが,アパート住民とのトラブルで半年も経たないうちに六日町に出戻った。その当時も賃貸アパート事情はそれほどよく無く,十日町市内でも見つからず,結局六日町で一番初めに下宿した大家さんの家の隣にある一軒家を借りることになった。1人で3部屋+ダイニングキッチンのある一軒家である。独身だったからできたことかもしれない。しかし,住民トラブルのことを今から考えると,もうちょっと上手く対処することもできたと思うが,当時はやっぱり,「自分が正しい」と思い込んだら,「上手くやること」を考えず,意見を押しつけて対立していたような気がする。そういうことは学校での指導でも現れていた。

相変わらず部活動至上主義は持っていて,1年目はソフトテニス部に配属されたが,2年目は希望してテニス部に異動した。一応実績があったから希望が通ったのだとは思うが,うまく付き合ってくれた部員もいれば,そうではない部員もいた。部活動を引退してから,「いろんな部員の気持ちも考えてほしい」と言われたこともあった。上手く付き合ってくれた部員からのアドバイスだった。こっちの思い込みからの押しつけがまだまだ続いていたことが今となっては分かる。

クラス経営はどうだったのかというと,完全にまだ手探りで,私の指導方針がそのような「おしつけ」だったので,反発する生徒もいたし,受け入れて指示してくれる生徒もいた。完全に2極化していたような気もする。「アクが強かった」ということなんだろう。

学校を取り巻く雰囲気は,まだまだ寛容な時代で,教員集団も,それほどピリピリしていなかった。年に1回1泊2日の職員旅行はあったし,テスト期間中や放課後,スポーツ大会をやっていた。一度テスト期間中に体育館でグラウンドホッケーを習ったことがあった。ホッケーはあれ以来していないが,とても楽しかった。

そんなおっとりした時代だったが,「日の丸君が代問題」の渦中だった。なんだかんだあり,式の時に日の丸をステージ背面に貼り,君が代斉唱を管理職が強行するということが各地でおこなわれてきた時代だった。

大学進学希望者が多い高校だったが,何が何でも大学進学させなければ,という雰囲気もそれほどなかった。クラスで,あまり成績の良くない生徒の保護者と面談していたとき,こちらからの話としては,「もっと勉強時間を多くして,成績を良くして……」という内容ばかりを伝えていたと思うのだが,その子の母親からは「うちの子は,優しくて,小さい子の面倒をよく見てくれて,私はそれでいいと思うんです。」と言われたときに,はっと分かった。

人間として立派なのは,他のことなんか目もくれず,勉強だけに没頭して,成績を上げる人よりも,自分の家族のことを気づかって,他者に優しい人の方だ,と。

今まで自分は子どもをどういう大人に育てようとしていたのか?きっと「自分のように」勉強をして,大学に入って,定職について……という「周りの人の気持ちに気づかない,自分のことばかりを考えている大人」を作ろうとしていたのかもしれない。そんなことよりも身近な周りの人に対して自分の時間を割ける人間の方が立派なんだとわかった。

わかったと言っても,それを実行できているのかというと,それはまた別の話で,30年近くそんな風に生きていて,身についたものは簡単にははがれない。はがれないが,はがそうと意識をするようになったとは思う。

十日町高校時代の教え子に会うと,必ず言われるのは,「先生の『こころ』の授業だけは覚えています。」ということだ。国語の授業はかなり勝手にやらせてもらったので,「こころ」の授業で20時間ぐらい使っていたのだ。「読み研方式」を覚え,物語の授業は,これだ!と没頭し,自分で読み研方式「こころ」をアレンジし,プリントを用意し,がっつりやった気がする。

今から考えると,これもハマる生徒にはハマるが,そうではない生徒には飽き飽きした授業だったんだろうと思う。それでも,私の授業を10年以上経っても覚えていてくれるというのは,教師冥利に尽きるものだ。

六日町高校時代の「大学受験問題演習型授業」から,「言葉の機能着目型」で,物語を読み取る授業にちょっとずつシフトしてきたんだと思う。民間の研究会に出席するようになったのもこの頃からだ。

3年で転勤することになった。1年から勤めていた担任は,卒業を待たず,2年生で他の先生にバトンタッチすることになった。それはとても残念だったが,同僚と結婚することになったのだから,しかたがないことだ。



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結局ここがホームサウナとなるのかもしれない。露天の水風呂再開まで行かないと心に決めていたが,小さい水風呂を我慢すれば,上越地区で他に比類を見ないサウナである。サウナは熱いし,水風呂は冷たい(ただし狭い)。広い風呂は温泉だし,外気浴だってできる。

だから,露天水風呂が再開されないうちは,混んでいないことを願うだけなのだ。

せっかく入るので,回数券を買おうと心に決め,さて,どっちを買うか?3カ月の有効期限で5,000円と,1年の有効期限で6,400円。3カ月が有効期限だと,1カ月に3回以上入らなければならない。果たしてそんなに通えるのか?コンスタントに行けば,通えるのかもしれないが,何があるか分からない。しかも10連休が挟まれる。7月にも入ると,上越にいない時期もある……と思い,結局1年期限のものを買ってしまった。

今日の風呂は,まずます混んでいる。小さな水風呂を見ると,蛇口から水が流れていない。私が蛇口を開いてから体を洗い始めると,蛇口を止める人がいる。一体何なんだ?従業員でもないだろう?あんな小さな水風呂に誰かが入ったら,水位が下がったままになるじゃないか。それとも入った後に蛇口を開いてくれるのか?そもそも水温を低く保つために水は掛け流しの方がいいのではないか?

と思いながら,サウナに入ると,5人くらい入っていて,結構きつい。もうちょっと後に来ればよかったかもしれない。この時間帯は混む時間帯か。

しかし我慢して入っていると汗が噴き出す。ここの水風呂は理想的な冷たさだ。これを求めていた。そしてこのサウナの広さ,5人入っても,それほど詰めなくてもよい。そして,外気浴。

今日は思い切って,石が敷き詰めてあるところまで出て休憩する。大きな石に腰掛けてうずくまっていると,もしかしたら見る人は大きな石だと思うかもしれない。

適度な風があり,ととのってくるのが分かる。じんじん手足と頭がくる。1回目はこんなものかと思い,サウナにまた入る。はいったら,なんと,サウナの中でととのった。これは初めての経験。休憩の後でもサウナに入ってじんじんくることはよくあるが,あそこまでととのうことは今までなかった。うーん,このかわら亭はやみつきになる。

3セットおこなって,気づいたら8時前だった。かなりゆっくりしていたなぁ。

今日のととのい度→4 ☆☆☆☆★

2019-04-23言語による見方・考え方を働かせる「山のあなた」の授業デザイン

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火曜2限授業「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」の2回目。「言葉そのものを学習の対象としている。」という指導要領解説を受けて,時一歳に授業課題を作った場合,どのようになるのか?を各自持ち寄って検討する時間。

題材は「やまのあなた」

山のあなた カール・ブッセ 上田敏訳

山のあなたの空遠く

「幸」住むと人のいふ。

嘻,われひとと尋めゆきて,

涙さしぐみかへりきぬ。

山のあなたになほ遠く

「幸」住むと人のいふ。

課題

感情曲線を描いてみよう

・2行ずつひとまとまりと考えて,初めから①,②,③とした場合,②は真ん中よりも下か上か?下だとして,どのくらいしたなのか?この線をどのような状態と考えるか?

・寝込むぐらい

・寝込むぐらいだったら,2日寝込むぐらいと考えて,線より下に置く。

・それほど寝込まないんじゃないの?

・①と③は真ん中よりも上と考えていいか?①と③はどちらが上か?

・③が上で,①の時点であった気持ちが,②で落ち込むが,あんまり自覚が無かった。②で反省して,③の方が上になる。

・①の方が上。①はワクワク感満載で,「幸」を探しに行くんだけれど,見つからなかった。それでも,③では,まだ自分が到達しないどこかにあるとして,希望は持っている感じだから,②よりもちょっと上がっているが,①のワクワク感は無いくらい。

・言葉そのものを学ぶというところで,いきなり「感情曲線」と言われると,感情にまかせて考えてしまう。ぼんやりと全体の解釈で考えてしまって,「言葉そのもの」という意識が飛んじゃう場合がある。今回もそうだった。「根拠を詩の表現から持ってくる。」と意識させるとよかったのではないか?

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課題

1回目と2回目で「「幸」住むと人のいふ」の読み方をどう変えるか?

《検討の内容は省略》

・「読み方」となると,とても曖昧で,どう答えてよいのかわからなくなる。

・例えば,「大きさ」,「速さ」,「句切り」とか,様々な読み方の要素を示してしぼらせて考えさせた方がいいのでは?

・表現させて,どうか伝達されたのか伝えてもらって,その後,「実はこういう解釈でこう伝えたかった」という流れだと,面白い課題だったかもしれない。

・これは「表現」と「解釈」と「伝達」という言葉の機能を意識させた課題だった。

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課題

「山のあなたになほ遠く」の「あなたに」を「あなたの」にすると何が違ってくるのか?

・「あなたの遠く」でも日本語的に間違いではない。

・「あなたの」だと,場所を指定している,「置いてある」感じがする。

・「あなたに」だと,そこに接していない感じ。ぼんやりしている感じ。

・分からないくらい「遠い」感じ。

・一度探しに行ったが,そこになく,さらにどこか遠く手の届かないところにあるという感じが出ている。

・「足もとに及ばない」,「〜にはほど遠い」という表現がある。その「に」の使われ方と似ている気がする。

・1字しかない助詞に着目するだけで,言葉の機能に着目して,解釈に繋げていくことができる。

2019-04-22六日町高校教員時代

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平成も終わろうとしている。様々なメディアで平成が終わることにかこつけて,過去を振り返る特集がなされているが,そういえば,私が教員になったのは平成元年だと気づき,私の教員生活は平成と共にあったのかと,ちょっと感慨深くなったので,自分の教員生活,社会人生活を振り返ろうと思い立った。

昭和最後の日は1月7日だったが,教員採用が決まり,のんきな大学4年生だった私は,その改元の時,自分の部屋でドラゴンクエストをやっており,気づいたら平成になっていた。その時は改元に興味が無かったというよりも,ドラゴンクエストに興味があった。日が変わって平成になった数時間後,そういえば,と思って,その時にテレビでも付けておけばと後悔したものだ。勇者を操って冒険に没頭していた。

平成元年度〜平成5年度(六日町高校教員時代)

平成元年の新潟県南魚沼郡六日町は,空いているアパートが無かった。初めての独り暮らしということで,とても楽しみにしていたのだが,湯沢町のリゾート開発のためか,そもそもアパート自体が少ないのか,学校の斡旋で紹介されたのは,古民家(一軒家)か食事付き下宿だった。期待がしぼみ,結局は六日町の名家の1室に間借りをすることになった。当時はコンビニエンスストアも無く,土,日はまかないも無かったため,土,日に六日町にいるとなると,外食をしなければならない。しかし,夜7時を過ぎると六日町駅前でさえも,店は閉まり,食事を摂ることが不可能となった。だから土曜日の授業が終わり,部活動も終わると,新潟市の実家に1週間の洗濯物を持って自動車で帰った。

仕事はというと,自分は高校の教師であり,生徒を教え諭す役目があるという勘違い野郎で,今の私が接したら全否定するような教師だったと思う。ただし,若かった分,一部生徒からはちやほやされて,思い上がっていたところもあった。思い上がっていたから,自省もなく「いけ好かない」教師を続けていたのかもしれない。

確か,2年目からだと思うが,月1で土曜日が休みになったり,月2で休みになったりしてきた時代だと思う。じゃあ,土曜日に仕事があったからといって,とてもきつかったかというと,そういう感じでもなかった。それは時代がゆったりしていたのかもしれない。かなり教員に対する風当たりは今ほどでも無く,太く鷹揚な感じが許されていた気がする。

職員旅行もあったし,学期末テストが終わったら,授業はほとんどなかったし,テスト中に学年日帰り旅行で近くの温泉にバスで行く,なんてこともなされていた。あの時は年休なんて取っていたっけ?そして夏,冬休みには部活動が無ければ「研修」ということで,年休も取らずに旅行に行っていたような気がする。それが許された時代だった。

私の授業はというと,高校,大学時代に勉強した教科の知識をただ単に与えていただけであり,本当にろくでもない授業をしていた。現代文は解説をして,生徒にはほとんど考えさせなかったし,古典は予習をさせ,その答え合わせをしていただけだった。何か楽しいこと,興味を引くようなことってしていたっけ?結局のところ「できる」生徒しかちゃんと相手にしていず,分からない生徒の理解なんて「怠けている」としか捉えていなかったかもしれない。

そもそも「授業デザイン」なんて全く学んでいなかったし,「生徒指導」,「学級経営]なんかも全く分からなかった。だからちょくちょく生徒とぶつかっていた。当時はまだ「ツッパリ」がいた。そういう生徒たちの心をつかむことなんて,私は全くできていなかった。生徒は相手が教師というだけで,「敬う」べきだと思っていたのだ。

大学に進学する生徒が多かったのだが,「受験対策はしない」と豪語しながら,結局は国語の楽しさなんて伝えられず,端から見ると受験問題を解かせる程度の授業しかできないでいた。

「高校教員の評価は部活動で実績を上げること。」という,分けの分からない妄想に取り付かれていたこともある。部活動顧問になり,「きちんとした指導」ができると,生徒は付いてくると思っていた。といっても,自分がしていたフェンシング部なんてあるはずもなく,いつかフェンシング部を作りたいという妄想も抱いていた。

スキー→剣道→テニス

というように変遷したが,テニスのスクールに入るなどしてテニスの技術をちょっとずつ上げ,テニス部顧問として一応まともに指導できるようになった。しかし,テニス部顧問になったとしても,高校教員としてはかなりずれていたような気がする。部活動は学校の組織とはいえ,カリキュラム外である。授業がまともにならなければ,まともな教師になったとはいえないのだ。

それでも部活動顧問に対するとらわれは,かなりの間続くことになる。

国語のある先輩の先生から,「あなたは,自分が一番だと考えているでしょう?それじゃだめなんだよ。」と飲み会の席で指摘されたことがあった。その時は反発したが,上手く言い当てていると,その後思うことになる。

六日町高校には,5年間お世話になることになった。

2019-04-19盆唄

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高田世界館で鑑賞。高田世界館には,年に数回程度しか行けていないなぁ。珍しくドキュメンタリー映画を観に行った。

福島県双葉町は原発爆発により帰還困難地域となっている。そこで行われてい盆踊り(盆唄)をテーマとして,盆踊りの復活,盆踊りの伝承などを描いた映画だ。

見ようと思ったきっかけは,「久米宏ラジオなんですけど」で,盆踊りに関わる人たちの写真をとり続けていた岩根愛さんがゲストとして出演したからだ。

福島県双葉町からハワイへの移民たちが,移住したときから,夏には盆踊りをおこない,盆踊りの文化を継承している。双葉町では盆踊りを行えなくなった双葉町住民たちが,ハワイにいって,双葉町で行われている盆踊りを(つまり,原形)を教える。そして,いつか,双葉町に還れるときが来たとき,何世代後になるか分からないが,その時にはハワイの人たちに盆踊りを教えてもらおうという願いでそれを行ったそうだ。

「祭」とは,何のために行うのか,それを表現している映画だと思った。私は盆踊りの記憶として,小学校の時に近くの公園でおこなわれたものに行ったことしかない。各町内会で盆踊りを開催していた。今やその公園はもう無く,盆踊りも開かれていない。大人になって盆踊りを主催する側になったこともない。新潟市では盆踊りはもはや,小学校の運動会で踊られるものか,新潟祭の民謡流しでおこなわれるものになってしまった。そういえば,高校の時,1回だけ,民謡流しに参加したことがあったなぁ。

しかし,運動会や,大きな民謡流しとは違った意味があることが分かる。それは地域の人たちとの繋がりの確認であり,ハレの場での気持ちの解放であり,祭りの後の日常を確認する場でもある。

祭りは行われなければならぬ。

映画の最後15〜20分続く盆踊りのセッションは圧巻だった。延々と歌と太鼓と笛が続き,見ている方はビートが体に染みついてくる。JBのコンサートのようだった。あい,そういえばJBの映画を観たのも高田世界館だったな。

2019-04-18うみてらす名立 名立の湯ゆらら

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サウナ難民と化しているが、週1回以上のサウナは死守したい。今日は一体どこに行けばいいのか?と悩んだ末、うみてらす名立 名立の湯ゆららにした。

広く熱いサウナと露天風呂の夕日に惹かれた。それほど人もいず、後から入ってきたおっチャンが知り合いと話し込んだことを除けば、サウナ自体はいいのだが、やっぱり水風呂がちょっとぬるい。

サウナ初心者だったらあの水風呂でよかったのだろうけれど、いろんなところの最高の水風呂を経験してしまうと、非常に物足りなくなる。学生時代、プールの授業があるとき、雨が降って、気温が低いときのプールぐらいの水温だ。

入っていようと思えば、いくらでも入っていられる気がする。

今日は露天風呂のところにデッキチェアがでていた。そこで休憩すると、そよ風が吹いてきて、水風呂に入っているときよりもひんやりしてきて、だんだんじんじんしてきて、いい感じで休憩できる。

ほんの少しだけれどととのった。

その後の露天風呂が最高なのだ、あそこの風呂は。ちょうどいい温度で、じりじり体が温まってくる感じ、全身痺れてくる。

今日のととのい度→3 ☆☆☆★★

2019-04-17学び続ける力

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新潟県立高田高等学校安塚分校に今年も招かれて2,3年生に向けてお話をした。2年連続で今頃の季節に安塚に行く。この時期の安塚はちょうど桜が満開の頃で,土手沿いの桜がとても綺麗だ。しかも天気がいいので,ドライブが楽しい。

昨年は3年生のみだったが,今年は2年生も加わって,約40名の生徒に対して話せた。高校現場を離れてもう3年経つが,最近は高校生に対して話す機会が無くなり,とても楽しみだった。

内容は今後の日本の状況という暗い話から,なぜ長い時間をかけて勉強をしなければならないのか?とか,暗記ではなくて論理を身に付けることが必要とか,就職試験の面接官はどんな人だと思う?とか,私が高校教師だったときにLHRで喋っていたことに,先行研究のエビデンスを付けて語った。

生徒さん達はとっても食いついて聞いてくれて,アクティビティーへの反応も良く,しかも50分間という時間の構成もぴったりで,自分なりには神がかった時間だった。

いつもはスライドをたくさん作りすぎて,時間に収まらず,最後のコンテンツをはしょって終わるのだが,今回は残り2分で終わることができた。びっくり。何が起こったんだろう?

しかし,「自分で上手くできた!」というのと,聞き手の評価というのは違うものだから,それはとても恐い。

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2019-04-16「言葉による見方・考え方を働かせる」とは?

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火曜2限授業「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」という長いタイトルの授業を受け持っている。各教科で言っている「見方・考え方」とは,どういうことか?をみんなで掘り下げていく授業だ。

2018年改定学習指導要領解説に書かれてあることを読み解いて,「いったい何を授業で身に付けさせるべきなのか?」を考えていこうという授業だ。

今回は「国語」。受講者の1名は現職国語教師で,私も元国語教師と言うことで,リアルな授業を元に考えられた。若いストレートマスターの方は,自分の受けた中学・高校の授業について身近に考えられるので,彼らの意見もとても面白かった。

授業は書かれてあることに対する感想や解釈,疑問を解いていくようなフリートークで進めていく。

以下は話の流れのメモ書き。

小学校と中学校での「見方・考え方」のとらえ方の違い

  • 小学校では日常生活での言語活動を意識するのに対して,中学校では社会生活での言語活動を意識して学ぶ。
  • 中学校になると,外部のコンクールに出品したり,高校受験での面接試験もある。
  • 見知らぬ他者に向けて表現する必要がどんどん出てくる。
  • 敬語の使用も小学校ではあまり子どもたち自身が意識はしないが,中学校に入ると不思議と意識して使うようになる。先輩,後輩という意識が生まれてくる。

「言語感覚」という言葉について

  • 解説の表記に「正誤」,「適否」,「美醜」なんてあるが,「美醜」なんて個人の感覚的なもので,それを始動できるのだろうか?
  • 「言語感覚」とは,語彙と密接に関わっていると思う。たくさんある語のうち,的確に伝わるためにどの語を選ぶのか?その語を使うとどのように伝わり方が違うのか?という「表現の効果」という面がある。
  • 相手意識や目的意識をもった言語表現活動により,「どう伝わるのか?」ということを敏感に捉えられるのが「言語感覚」だ。
  • 「赤面した」と「恥ずかしがった」では,どちらが適切なのか?「うれしい」と「たのしい」ではどちらが適切なのか?を直感的に判断できる感覚のこと。
  • それができるには,経験値が必要。授業で経験値を積ませなければならない。
  • 相手の反応を感じて勉強しなければ得られない。読書だけでは身につかない感覚かもしれない。

「言葉そのものを学習対象としている」とは?

  • 「理解することを直接の目的としない」というのは分かるけれど,理解しなくてもいいということなのか?
  • ということは,読む文章は何でもいいということ?どんな文章でも言葉そのものを学べばいいということ?
  • マンガでもいいの?
  • 台詞や説明のないマンガを読んで,それが説明すればいいの?
  • 要約をして終わりという授業では,言葉そのものを学習しているということにはならない。
  • 「何が書いてあるか?」ではなく,「どう書いてあるのか?」
  • 文章を学ぶ上で「何が書いてあるか?」以外の要素って何があるのだろう?

 1.意味・読解

 2.文法

 3.表現工夫・効果・技法

 4.(語彙の)比較・選択

 5.(文章の)構成・構造

 6.音韻・リズム

  • これらを学べば,表現のヒントになる。自分の文章に役立たせることができる。
  • 「深い読み」に繋げることができる。
  • 他の教科の学びに繋げることができる。応用できる。
  • 書かれてある内容だと,応用はできないが,言葉そのものだと,他の分野に応用できる。
  • 言語活動の基礎となることを学ぶのだろう。

2019-04-10上越リゾートセンター くるみ家族

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いろいろとむしゃくしゃすることがあったので,これはサウナに入ってリフレッシュしなければと思い,近場で一番熱いサウナを目指す。

時間帯が悪かった。ちょうど仕事帰りのおじさんたちが風呂に入って汗を流して家路につこうという時で,結構混んでいた。そしてうるさかった。

サウナも,今まで経験したことのない人口密度だった。しかも今まで経験したことのないうるささだった。うーん,と我慢する。

このサウナは以前も書いたように,上越市が運営しているので,安いし,ありとあらゆる人が入ってくる。だから混むときは混む。それでも,サウナは熱いし,水風呂は冷たいし,いいところなんだよなぁ。ただ,あれだけ混むと,サウナに敷いたマットが濡れた状態が続くので,ちょっと気持ち悪いかも。

それでも,久しぶりにじんじんして,ととのった。

うーん,夏期ホームサウナ「かわら亭」の露天水風呂は5月中旬からということなので,まだ行けない。サウナ難民の日々は続く。

今日のととのい度→4 ☆☆☆☆★