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上越教育大学教職大学院准教授片桐史裕です。
2016年3月まで27年間新潟県の高校国語教師を務めていました。
映画のことや,教職のことについて書いています。
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2018-08-16国語学習は何のため?

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1.初めに

本文は,学習指導要領の解説をするものではなく,昨年から「国語の学習は何のため?」ということを考え続けてきたので,そのまとめとしてのメモである。授業で学生と対話して見えてきたもの,本を読んで見えてきたものを少し整理して書きとめておく。

2018年公示新高等学校学習指導要領に,国語の目標として以下のようにある。

言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で的確に理解し効果的に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。

(1) 生涯にわたる社会生活に必要な国語について,その特質を理解し適切に使うことができるようにする。

(2) 生涯にわたる社会生活における他者との関わりの中で伝え合う力を高め,思考力や想像力を伸ばす。

(3) 言葉のもつ価値への認識を深めるとともに,言語感覚を磨き,我が国の言語文化の担い手としての自覚をもち,生涯にわたり国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う。

国語科という科目は「言葉による見方・考え方を働かせ」方や,「言葉による見方・考え方」とは何か?を取り扱う唯一の科目だ。もちろん他の教科で「言語による見方・考え方」を働かせる場面はある。それを「言語活動」というのだが,言語活動をおこなうことにより,それぞれの教科特有の「見方・考え方」を深めるためにおこなっている。つまり,「言葉による見方・考え方」の理論と実践を扱う唯一の科目だ。もうちょっとフランクにいえば,「日本語の機能を理解し,使い方を練習する」科目と言える*1


2.言葉による見方・考え方とは?

それでは

「言葉(日本語)による見方・考え方」とは何か?

「言葉による見方・考え方」とは,内田樹の言う「言語の檻」のことである。日本語を母語として,日本語で物事を考えている場合,日本語の見方・考え方から離れることはできず,「日本語的思考」で考えざるを得ない。

私は日本語以外の言語に関して,不案内なので,日本語を他の言語の見方・考え方で眺めることができない。それがとても残念なのだが,他の言語に堪能な人に話を聞くと,どうやらそういうことがあるようなのだ。

世間に流布されている間違ったとらえ方をしている人は「日本語は曖昧だから,論理的な表現をするのに不得手だ。」と言う。しかしそれは誤りで,日本語は曖昧な表現もできるし,論理的な表現もできる。それは日本語の語順が自由だからである。「結論」を最後に持って来て,それを「言わなくても」文章として成り立つ。「わたし,ラーメン。」という表現は日本語として間違いではない。

しかし,語順が不自由な言語だと,「言語の檻」がガチガチで,そこから離れることができないというのだ。「我,拉麺。」という中国語は成り立たない。何を言っているのか全く伝わらないそうだ。

こんなふうにまず,「言語の檻」があるということを認識させるのが国語の学習の目標となるだろう。そして,その檻から抜けられないのであれば,その檻を大きくする(=語彙や,表現方法を増やす)ことにより,今よりも自由な日本語の使い手となるはずである。

語彙や表現方法を増やす

ことは,何に繋がるのかというと,「世界,社会」を広げることに繋がる。

我々は幼い頃から,自分の経験(見たり聞いたり触れたり……したもの)が先にあり,それに言葉が後からくっつき,それを認識していく。ヘレン・ケラーが「Water!」とサリバン先生に教わって,外の世界を知っていったように。経験が先にあり,後が後から当てはまる。(語後)

しかし人間の経験できることは,多く見積もっても,その人の半径数百メートル内のものだから,限られてくる。それでは世界,社会は広がらない。そこで,先に言葉を知り,後から経験が当てはまっていくことが起こる。(語先)

ああ,これって「恋」なのね。

というよくあるフレーズがそうである。言葉を知ることは,ほぼ無限(言葉の数だけ)にできることなので,世界,社会は言葉の数だけ広がる可能性がある。その人の経験できることは有限かもしれないが,「想像」の可能性はほぼ無限であり,想像できる分だけ世界,社会が広がる。これが学習指導要領の目標にいう,「思考力や想像力を伸ばす」ことに繋がる。

3.エクリチュール

エクリチュールとは,

社会的に規定された言葉の使い方

*2。日本はヨーロッパに比べると緩いらしい。ヨーロッパ諸国は,社会階層により規定されているが,日本は片鱗が見えるのが主に職業によるものらしい。

エクリチュールは,その階層による言葉遣いなのだが,言葉遣いを別の階層のものにすることにより,別の階層のものの見方・考え方を得られる可能性がある。これも一種の「言語の檻」と言っていいだろう。

もうちょっとくだけて身近な例で言えば,「丁寧な言葉遣いをすれば,物事を丁寧に見ることができるし,その逆もある。」ということだ。これは敬語にも通じる。日本語は「敬語」にガチガチに縛られた語であるので,自分の目上なのか,目下なのかを意識せざるを得ない。人を呼ぶときに必ずその意識を持つことになる。呼び捨て,さん付け,君付け,ちゃん付け……全て自分と上か下か(もちろん同等もあるのかもしれないが,常に同等であることはないだろう)を意識する。

だからこそ,他人を敬うということを言葉遣いから身につけることにより,平穏な,ストレスフリーな社会を維持していくというのも国語の学習の目標であると思う*3

新学習指導要領にいう,「他者との関わりの中で伝え合う力を高め」に繋がる部分である。

4.古典は何のため?

古典なんて原文を無理矢理読ませないで,現代語訳で十分だというご無体な意見を言う人がいる。果たしてそうなのだろうか?今まで述べたとおり,言語は「檻」である。言語であるということで,「見方・考え方」が規定されている。

こんな例で考えてみよう。

理科の授業は実験が命だという。じゃあ,実験をするには器具をそろえたり,薬剤をそろえたり,お金がかかるから,誰かが実験をしたものをビデオに撮って,それを学習者に見せれば,実験したことになるんじゃない?ビデオに撮るのも手間だから,実験の手順とその結果が掲載されている教科書を読ませればいいんじゃない?なんて言われたら理科の先生は反論するだろう。

ビデオに撮る時点で「制作者の意図」が必ず入る。教科書に記載する時点で「執筆者の意図」が必ず入る。それでは本当に実験をしたことにならない。学習者は生の情報に触れる必要があるというのが,反論の理由だ。その通り。

これは文章にも当てはまる。例えば超有名な枕草子「春はあけぼの」の文章は,あの文章自体であの世界を完璧に(または,他に類を見ないほど)表現できているから,1,000年以上の時を超えて伝えるに値すると判断され,教科書に掲載されている。取るに足らない昔の文章は,もう,再現不可能な状態で消え去っている。

その「春はあけぼの」を現代語訳したものや,同じような世界観を記述したものは,オリジナルの「春はあけぼの」を絶対に超えていないはずだ。超えていたのだったら,その現代語訳したものの方が,価値があるとして有名になっているはずだ。ということは,そのオリジナルの生の情報に直接触れることが大切であって,現代語訳に触れることは,その価値から何段も低い情報に触れているということになる。

しかも,1,000年以上前に生まれたオリジナルに古語辞典1つあれば,誰でもアクセスできるということは,日本の知的リソースを守る上で,この上なく重要なことだ。一部の特権階級しかアクセスできないばあい,その特権階級が消滅したら,誰もアクセスできなくなる。

最近,どうしてみんなが勉強しなければならないのか?と考えてみた。もちろん個人個人の幸せのためなのだが,それだけではない。民主社会だからなのだ。一部の人たちのみが読み書きができ,メディアリテラシーを持つだけだったら,民衆は簡単に権力者に欺され,いいように使われてしまう。その権力者に歯止めをかけるために,我々は勉強し,意見を言い,「みんなが」住みよい世界にしていかなければならない。

日本の教育が,子どもたちを苦しい方向に追いやっているとしたら,それは権力者の思うつぼなのかもしれない。単に経済成長のみを重要視し,経済成長に関与しない者を切り捨てる意見を持つ人ばかり大きな声でものを言える社会を作り出そうという流れに「NO!」と教育に携わる者たちは声を挙げなければならない。

話を古典学習に戻すが,古語辞典1つあれば,1,000年以上前のリソースにアクセスできる知性を持つ国民がこれほどいる国は,あまりないのではないかと思う。それは「単なる趣味で国民全員がする必要が無い」という人もいるかもしれないが,そうであれば,同じ論法で「国民全員が実験,観察をする必要が無く,動画で済ませればよい」ということになる。動画で何がわかるんだ?と私は思う。「生のサッカーを見ない人が,サッカーを語るな!」と同じことだ。

「本物」に触れることが重要だし,ちょっと頑張れば「本物」を感じることができるのだ。これは日本文化が脈々と続いていることに起因するとても貴重なことだ。これを子どもに体感させるのに教育的意味が無いはずがない。これが新学習指導要領の目標「言語感覚を磨き,我が国の言語文化の担い手としての自覚をもち,生涯にわたり国語を尊重してその能力の向上を図る」に繋がるところだ。

5.終わりに

ブログ等をつらつら見ていると,悩める国語教師が「受験国語に意味があるのか?」ともがいている。もがいているが,受験国語をせざるを得ない境遇で,受験国語に意味を見いだしている。受験国語をすることを強いられ,それがイヤになり,ドロップアウトしたような我が身で,何をいっても納得力が無いかもしれないが,本来教育は「その授業を受ける全ての人に意味がある」ものをしなければならないと思っている。

一般的な学校で,教室内に40人ほどいて,受験国語を授業でおこなって,いったいその授業内容は,40人の内どのくらい届いているのだろうか?受験問題を解かせて,解法を教師が説明する。その説明は教師の解法であり,子どもの思考パターンにぴったりくる解法ではない可能性がかなりある。その子どもは「その解法が『正解』なのか」と思い,自分の思考パターンに合わない解法を取り入れようとする。しかし,合わないから,身につかない。

受験国語の授業と,子どものテストの点数の因果関係はあるのだろうか?国語の先生で,学生時代,国語の授業で受験国語を習い,点数が上がったと思っている人は,どの位いるのだろうか?少なくとも私は受験国語の授業が面白くて(ためになって)点数が上がったタイプではないが,受験国語授業を押しつけていた。

話はそれたが,教育の目標は,今教室で目の前にしている子どもたち「全て」が目指すもので無ければならない。「40人の内,5人を相手にしている」ではいけない。そんなのをしたいのだったら,自分が相手にしたい学習者ばかりがいる環境に移ってやるべきだ。5人を相手にするために,35人を無視することは公教育では絶対にしてはいけない。

「受験国語に意味がある」と考えている人は,目の前の子どもたち全員に意味がある授業をしているかどうかを問うてから,その考えを続けるかどうかを決めてほしい。

*1:「日本語」と限定しているのはもちろん他の言語を扱う「英語」もあるからだ

*2http://manabiai.g.hatena.ne.jp/F-Katagiri/20180116/p1

*3:自分を「お客様」と思うことで,客が急に獲横柄な態度を取り出すという事例もある。