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上越教育大学教職大学院准教授片桐史裕です。
2016年3月まで27年間新潟県の高校国語教師を務めていました。
映画のことや,教職のことについて書いています。
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2018-05-14言葉の「檻」について

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高田世界館で観る。

大林宣彦監督の戦争を題材にした映画。戦争を題材にし,長岡が舞台だった「この空の花」を観て衝撃を受けたし,大林宣彦監督の健康状態の報道もあったことだし,絶対に見逃せないと思い,観に行った。

終始大林映像が徹底されていたものだった。初作品「HOUSE」や初期の作品「時をかける少女」の非現実感を表すときの,「作り物感」が徹底されていたということだ。「HOUSE」や「時をかける少女」などを当時観たとき,今ほどCG技術が高くなったわけで,手書き感満載に着色されていたり,例えば花火が打ち上がったりと,「何だ,雑だなぁ」と思ってしまった。シーンの切りかえもワイプが多用されて,古めかしいなぁと思っていた。

しかし,今,そんな感じで作られた映画を観るとわかってくる。そのようなタッチで「非現実感」を現すと,現実に眠っているときに観ている夢のような感じを現しているんだと。つまり,現実に起こっている非現実感を表す表現だったのだ。人間が実際に見る夢は,リアルでもあるし,起きてから思い返すとなんだかわざとらしい「作り物感」を感じる。

この作品では,現実社会で起こっているが,冷静に考えたらあり得ない「戦争に日本全体が突き進む」という感じを「非現実感」として表現しているのだ。頻繁に差し挟まれる子どもたちの歌と行進,兵隊たちが整列してあるところに向かって歩いている姿,もう止められないというのが「非現実」として描かれている。

たまに見え隠れする「非現実」の社会に触れた登場人物も「現実」と「非現実」が交互に現れる世界で生きている。現実的な行動をしたり,非現実的な行動をしたり。

はっきりいって登場人物の言動は「よくわからない」,「一貫性の無い」ものであった。全てが現実であり,全てが何かのメタファーとして描かれているような気がするが,何のメタファーなのか,わからない部分が多い。わからないからこそ「非現実」を観ている人に感じさせるものなのだろう。

主人公窪塚俊介は,伯母の常盤貴子の元に居候をし,亡くなった常盤貴子の夫の妹,矢作穂香に恋心を寄せているのか,寄せていないのか。主人公の同級生満島真之介は付き合っている女学生がいるにもかかわらず矢作穂香にアプローチしていく。矢作穂香は病で余命幾ばくも無い。また,同じ同級生長塚圭史は,長年病気を患っていてベッドから起き上がれなかったが,その時面倒を見てくれた門脇麦のことをどうも思っていないと思いきや,満島真之介と付き合っていたにもかかわらず,結ばれてしまう。

と,分けがわからない。ぐちょぐちょなのだ。現実の映像と非現実の映像(イメージ映像)が入り乱れて描かれ,そして全員が死に向かって行く。

「わからない」という思いが観ているとき全編を通してあったが,観てから時を置いてみると,全てがメタファーなのだろうと思えてきた。

唯一観てはっきりわかったことは,常盤貴子も門脇麦も矢作穂香も魅力的だったということ。

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院生授業「中学校・高等学校授業づくり演習」の今回は,教材をもとにした授業づくりはお休みして,ブログ「内田樹の研究室」2016.12.9記事「言葉の生成について」(大阪府高等学校国語研究会での講演の文字起こし)に書かれてあることから,「これってあれか!」と気づいたことや,気になることを話題に話し合いました。

国語授業の根っこの部分について掘り下げていきます。

 「似合う服が無い」っていう表現がすごく言葉っぽい感じがする。

 内田さんがフランス語の文献を日本語翻訳するとき,ぴったり当てはまる日本語が無いという比喩が「似合う服が無い」っていう。

 中国語では,宝石を表す言葉(「玉」,「璧」,「玦」……)がたくさんあるけれど,日本語では「宝石」だけとか。

 ちょっと違うかもしれないけれど,野球を教えていたとき,ボールの打ち方を説明してもなかなかわかってくれず,言語化が難しい感じかな?長嶋茂雄がボールの打ち方を説明したときに,「ばーっときたらばーっと振って打つんだ。」みたいな?

 中国の友人に言われたことは,日本は音の表現がとてもたくさんあるっていうんです。オノマトペとか擬態語とか。

 日本人って,自然の音を知覚するのが言語脳だって聞いたことがある。だから,言語化されやすいんじゃないかな?

 鳥の声が聞こえると,本が読めなくなるという……。

 韓国の「ドラゴンボール」のオノマトペはどうなってるのかな?(本棚からとって開いてみる。)あ,ハングルだ。

 韓国も音を表す語が多いって聞いたことがある。

 たまにアルファベットになってるね。

 野球の話に戻るけれど,なかなか伝えられないときに,「足の踏み出し方は,トマトをクチャって踏む感じ。」と言ったら伝わったときがあった。

 比喩表現かぁ。

 

 国語をやっていると,何でも言語化できるという気になっているところがあるよね。もちろん言語化すれば,認識したり,整理されたりするのだけれど,「深い学び」って,言語化できない部分もあると思うし,言語化したら深い部分が知覚されないまま捨て去られるようになっちゃう。

 限定されちゃうこともあるので,無理矢理言語化する必要が無い場合もあるんじゃないかな?読書感想文書かせると読書が嫌いになっちゃう……。

 言語のメリットとデメリットをちゃんとわかって国語教師は課題を作らないといけないんだろうな,なんて思ったりして。

 確かに難しいなぁ。

 英語って何で必要なのって課題があったけれど,英語はそのうち喋らなくても通じるようになるんだろうけれど,英語を勉強することが別の「服」を着ることだというのが何となくわかった。

 ホリエモンが良く言ってた,「スマホがあれば英語はもういらない。」って。

 中国で,よくスマホを持って話しかけられてた。

 僕もやった。

 同じところのレベルで古典の学習っていうのもあるんじゃないかな?

 昔,先生に「古典は外国語だ」って言われたことがあった。今読んでわからないだから,外国語だって。

 さっき,和歌の読み取りがなかなかできなくって,いつからかできるようになったって話があったけれど,ここ(内田樹のブログ)に書かれてあることだよね。読んでいれば自然とできるようになる。

 これが言葉の檻を獲得したっていうこと。ここでは「服」を着られたということ。

 これは,生活習慣がそうだから,言語が生まれるのか,言語があるから,そういう言語になるのか……。

 中国語って,日本語と語順が違うじゃん?それって,何か規定されている感じはある?

 あるある。欧米の人もそうだと思うんですけど,なにが「一番」なのかな?っていう感じが日本と中国とでは違う。日本で「御飯を食べます」っていうけれど,中国語では必ず「私は」が入るし,「私が」「何をする」というのが必ず来る。主張が強いっていうのか。日本じゃ,「御飯」だけで通じるというか,「私,御飯……」だったら,「あなたは御飯なの?人間じゃ無いの?」となってしまう。

 人間形成に関わってくるよね。

 外国語を獲得していない状態を「身に合う服がない」という語で表されていて,どんな服を着ているのかわからない,しっくりこないという意味なんだろうな。

 新人の教員が「教師らしくない」と言われるのは,教師の「服」を着ていないという感じなのかな?言葉遣いが違うというか。教師の言葉を使っていないという。でも,それって,どんな言葉遣いなんだろう?

 自分は教師になってもこんなくだけた言葉遣いになると思う。

 グループワークしているときとみんなに発表するときでは,言葉遣いが違うよね。

 そのグループだけに伝わる言葉遣いと,不特定多数に伝えようとする言葉遣いは,いつの間にか,学校で習得しているんだよね。小学校低学年で,それを無意識に獲得するというか。

 教育実習の時に,1年生と3年生で授業をするときに言葉遣いが変わっていた。

 それは,意識して?意識しないで?

 意識していなかったと思います。

 どんな風に違っていたんだろう?何に反応して変わったんだろう?

 同じ学年の別のクラスでも言葉遣いが違っていた。反応を見てなのかな?静かなクラスでは,元気を出してワイワイやらせるように。元気なクラスではもっとワイワイやらせるようにと。

 私はこの間小学校で授業をしたんだけれど,高校生相手と基本的に言葉遣いは違っていなかったような気がする。どちらも丁寧にしていたというか,もちろん,難しい語は使わないようにしていたけれど……語彙以外は違わなかったような……。

 「中腰」っていう表現がここに何度か出ているんだけれど,「中腰」の状態で,わからない,わからないと思いながら過ごすという。国語も,わからないものをわかった気にさせるのって,よくないと思う。先週やった「高瀬舟」もそうなんだけれど,「わからない」という状態を持続させて,気にさせて,自分でわからせるというか,気づかせるというか……。

 でも,テストがあると,ある程度「答え」を提示して,点数とらせる授業にしないとだめなところもありますよね。

 そうだよね。でも,新学習指導要領で,大きく変わっているんだから,テスト自体を変えて何を身につけさせるのかを変換していかないとだよね。センター試験も変わるし。

語り尽きず時間切れ。本当はここに書き切れない,たくさんの内容を語り合ったのだけれど。言語の獲得は新たな服の獲得。その服を新たに着ることで,新たな視点が持てる。なんてことを内田さんはこの段で言っているんだろうな,と読み解いて,問題は,それを国語授業づくりにどう活かすか,なのだ。

新たな服や檻の獲得と,その服をぴったりとしたものにしたり,檻を大きくするのが,国語授業の目的なのかな?とイメージは固まってきた。