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Pay it Forward , By gones 片桐史裕 このページをアンテナに追加 RSSフィード

上越教育大学教職大学院准教授片桐史裕です。
2016年3月まで27年間新潟県の高校国語教師を務めていました。
映画のことや,教職のことについて書いています。
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2010-12-21好きな本を読み続けていいのか?

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朝の読書実践研究会機関誌「はるか」原稿です。


朝の読書をよく知っている人は、はじめは「本を読む姿を見るだけで感動」という状態から、だんだんうまくいくと、それに慣れてきて、それが当たり前になり、「本の内容はそれでいいの?」という考えになります。人間というのはすぐに慣れる(または、飽きる)動物だからです。

朝の読書をよく知らない人は、「学校の教育で、生徒個人個人の好きなことをしていてそれでいいの?」という疑問がわきます。これは、学校教育とは、教師や大人や社会の思惑通りに子どもたちを引っ張っていくものだという固定観念がある人の考え方です。

朝の読書は、近代から日本でおこなわれている学校教育から、一線を画した教育だと思っています。つまり、子どもが学ぶ内容を自ら決められるのです。これは、学校制度ができる前、人々が自ら学ぼうとした時、何を学ぶか、誰に師事するかを自分で決められた時代には当たり前のようになされていました。しかし、近代教育では「効率化」のもと、そういう「学ぶ内容の自由」は完全に排除されてきました。

それを学校教育の中で復活させられたのが、朝の読書だと思っています。つまり、「好きな本でいい」というのは、朝の読書の4原則の中で、最も重要で、しかも、朝の読書を支えている柱なのです。これ1本が無くなったら、朝の読書は成り立たなくなるという大黒柱です。

内田樹先生は、朝の読書は「活字を浴びる」活動だと位置づけました。なるほど。そういうことが今の子どもたちに無くなっているからこそ、学校で朝の読書の時間を設ける必然性があるんだと思います。私は、小学校から高校にかけて、まさに活字を浴びました。小学校から中学校までは、星新一の全集を読みあさり、高校では筒井康隆のSF小説を暇さえあれば読みました。高校の時には芥川龍之介の全集を夏休みに読んだという友人に触発され、「夏目漱石ぐらい読んで置いた方がいいのかな?」というちょっと背伸びをした気持ちで読み出した時もありましたが、ほとんど挫折していました。高校の授業で「こころ」でも取り扱ってくれていれば、そっちの方面から読んだのかもしれませんが、残念ながらそれもなく、「こころ」という小説の存在を知ったのは、実は「めぞん一刻」というマンガに紹介されていたからなんです。

私の少年時代は、ゲームなんて全くなく、パソコンなんて、高すぎて個人が買えるような時代ではありませんでした。手っ取り早い娯楽は読書だったのです。でも今は全く時代が違います。読書という娯楽は子どもたちにとってランキングとして非常に下の方、または「娯楽ランキング」の範囲外になっています。

ところが、前の時代に生きている我々大人達は「本を読んで当たり前だ。」と考えます。(ほとんどの大人は今それほど本を読んでいないのに。)本を読み出すと、「そんな簡単な本なんて読んでいてもしょうがない。」なんて思います。本当にそうなんでしょうか?読んでもしょうがない本なんてあるんでしょうか?明治から大正、昭和時代、夏目漱石を読んだ人は、何を求めて読んでいたのかというと、実は恋愛シミュレーションのためだったということを夏目漱石研究家から聞きました。決してそれほど崇高な意味で読んだわけではないのです。

「堅い」文章の読み解き方は国語という教科に任せて、朝の読書は自分の身の丈に合った本を読む時間、活字を浴びる時間でいいんじゃないでしょうか?活字を浴びることにより、文字が頭に入ってくる素地を作り、普段の生活で、活字情報を取り入れられるようになっていくと思います。教科書の文字情報を読めない子どものなんと多いことか。授業で、課題の説明を書いたプリントを全く読もうとしない子どものなんと多いことか。活字を読むという素地ができていないんです。

いつまでも絵本を読み続ける幼児がいないように、いつまでも柔らかい本は読み続けません。しかし、軟らかい本の次に何を読めばいいのかわからない子どももいると思います。そのときには、その次に読む本を紹介する人(友だちや我々大人)が紹介すればいいのです。私は、自分が読んで、おもしろかった本は熱く授業で語ります。そうすると中の数人はそれに反応して、その本を読み出したり、そこまでは行かなくても「この本、図書館にあったよ。」と伝えてくれる人もいます。そういう本が子どもたちの頭の中に情報としてあれば、いつか読み出すかもしれません。そういうことをするしか我々にはできないのです。

読みたくもない、興味もない本を与えても、読んでいるふりをするだけです。読んでいるふりでは活字は浴びられません。読書とは「読む」という意欲がなければ成されません。「好きな本でいい」という大黒柱はそれほど重要な柱だと私は受け取っています。

yoichiyyyoichiyy2010/12/22 23:24ちょうど、気になっていたテーマでした!
素晴らしい情報を、ありがとうございます。参考にさせていただきます! 
(というか、迷いがなくなりました。)

F-KatagiriF-Katagiri2010/12/23 09:46yoichiyyさん、コメントありがとうございます。yoichiyyさんも「朝読」やっていらっしゃる?塾で?

t-oshimat-oshima2010/12/28 07:27当時の人たちは夏目漱石などの文学を娯楽作品として読んでいたのでしょうね。
私自身読む前はおっかなびっくり襟を正して読み始めましたが、あまりにも普通に読めて、そして面白く、拍子抜けと感動が同時に襲ってきた思いがあります。
今は、ゲームなどの手っ取り早い娯楽があふれているので、「敷居の高い」ものに手を出しにくくなっているのでしょうね。
私の漱石初体験は現国の先生が教科書の『こころ』に載っていない部分を印刷して読ませてくれたことでした。それからすぐに本屋に行きました。
あと、井上靖を買ったのは中学校1年か2年。教科書に「赤い実」という単元を気に入り、作者紹介欄を見るとそれは、『しろばんば』の一部だったということが分かり、手に入れました。
私の場合、教科書や、先生の紹介が読書の背伸びの一つのきっかけになっています。

F-KatagiriF-Katagiri2010/12/29 14:58t-oshimaさん、コメントありがとうございます。

きっと、当時の学生たちは、今の子がDSで恋愛シミュレーションゲームと同じような感覚で読んでいたのでは?と勝手に想像します。

きっと最近の子たちは我々の時ように恋愛の何たるかを雑誌で読んだりしていないんだろうなぁ。