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Pay it Forward , By gones 片桐史裕 このページをアンテナに追加 RSSフィード

上越教育大学教職大学院准教授片桐史裕です。
2016年3月まで27年間新潟県の高校国語教師を勤めていました。
映画のことや,教職のことについて書いています。
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教室『学び合い』フォーラム
第15回(2019年)《海》,《山》は
2019/8/3〜4に福岡県,2019/11/2〜4に長野県でおこないます。
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2008-11-18教育の成果とは?

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例えば、算数で「今日は九九の4の段を覚えたよ。」と息子が風呂の中で言ったとする。息子にとっての算数の時間の成果は明確だ。

私の授業だったらどうなるか?「今日は国語の時間に、象徴について考えたよ。」となる。「考えた」ということが「成果」になるのかどうか?という問題である。

別の側面で、「今日は国語の時間で『山月記』の李徴の気持ちが分かったよ。」となった場合、「成果」は明白だ。分からなかったことが分かるようになったのだから。

両者は何が違うのか?明白な「答え」があった場合、分からなかったことがわかるようになったというのはとても分かりやすい「成果」であるが、今まで考えなかったことを考えてきたというのは「成果」になり得ないのだろうか?

「教科書を学ぶ」ということと「教科書で学ぶ」ということの違いは昔から言われている。私は「教科書で学ぶ」ということをある時期から意識してやって来た。教科書を「資料」としたいという考えだ。「教科書を学ぶ」と、「わからないことがわかった」ということにつながるだろうし、「教科書で学ぶ」と、「考えなかったことを考えた」ということにつながる。

教育というのは目に見える「成果」ばかりを追っていってはいけないのだと思う。逆に目に見えない漠としたものだけを追っていってもいけない。私の授業にはそういうところが欠けていたのかな?と反省している。3年生になっても漢字も送り仮名も目茶苦茶な子どもも多い。少々方向転換しつつある。

でも、最近気づいたのは、1年生に比べて圧倒的に字が丁寧に書けるようになっているということだ。乱字・誤字はマーカーでチェックしていくのだが、ほとんどチェックする必要もない。これが私のやってきたことでの「目に見える成果」だろう。他はあんまり実績は上がらなかったんだけれど……。