Hatena::Groupmanabiai

Pay it Forward , By gones 片桐史裕 このページをアンテナに追加 RSSフィード

上越教育大学教職大学院准教授片桐史裕です。
2016年3月まで27年間新潟県の高校国語教師を務めていました。
映画のことや,教職のことについて書いています。
研究室ページ katagiri-lab

iPhone版はこちら

niagara@cocoa.ocn.ne.jp

教室『学び合い』フォーラム
第15回(2019年)《海》,《山》は
2018/8/3〜4に福岡県,《日付未定》長野県でおこないます。
manabiainu
http://manabiai.jimdo.com

2018-10-09帰ってきたヒトラー

[]帰ってきたヒトラー 2015 帰ってきたヒトラー 2015 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 帰ってきたヒトラー 2015 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 帰ってきたヒトラー 2015 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

f:id:F-Katagiri:20181012090315j:image

CS視聴。

1945年敗戦間際のヒトラーが2014年のドイツにタイムスリップするというもの。

ヒトラーはテレビ番組企画のためにドイツの様々な街に行き,住民にインタビューする。「今のドイツの不満派なんですか?」住民は,移民問題,経済問題,福祉問題と社会問題への不平不満を口にする。「ヒトラーはそうだ。その通りだ。」と住民の意見に全て同意する。

極右政党の党首に会い,「やっていることが生ぬるい」と批判する。

バラエティー番組に出演したら,大人気になり,国民から指示される。もちろん国民は偽物,お笑い芸人だと思っている。ヒトラーを国民は今の暮らしをよくしてくれるヒーローだと賞賛する。今よりも民意を反映してくれる旗振り役とみんなから見られる。

だからネオナチには敵対され,あるとき暴行を受ける。

ここが面白いところ。ヒトラーは70年前と全く変わっていないのに,国民のとらえ方が全く違う。ヒトラーはエンディング近くで言う。

私が無理矢理戦争をしかけたのではない。大衆が私を選んだのだ。

何でもかんでもヒトラーに責任を負わせて反省がなければ,また同じことをくり返す。これは日本も同じこと。

最後,ヒトラーを見つけ出し,行動を共にしたテレビディレクターが「ヒトラーは本物だ」と気づくが,精神錯乱者として病院に隔離される。

真実を見抜いたものは口を封じられるということか?民意に都合の悪い者は排除されるということか?

2018-10-08新潟シティマラソン

[]新潟シティマラソン 新潟シティマラソン - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 新潟シティマラソン - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 新潟シティマラソン - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

f:id:F-Katagiri:20181009092515j:image

自分が好き好んでマラソン大会に参加するとは思わなかった。きっかけは行きつけの床屋の店主に「新潟シティマラソンは,万代橋の真ん中を走ることができ,とても気持ちがいい」と言われたことだった。

Apple Watchを手に入れてそれでちょっとずつランニングをするようになっていた私は,出てみようという気になった。車道の真ん中をみんなに応援されながら走るというのはとても気持ちいいと店主は言うのだ。

その当時,コナミスポーツクラブで頑張って走っても40分ぐらいしか走れなかった私は11kmなんて走れるのかな?と思っていたのだが,目標を持てば走ることができると言われ,そうかと思い,11㎞を走ることを目標に夏の暑い中でも練習した。

また,カミさんも誘い,たまにカミさんと練習もした。一緒に目標に向かう人がいるというのは張り合いが出るものだ。

気持ちを上げるために,ランニンググッズを買うことも必要だ。ランニングシューズとポーチを買った。そして当日どんなウエアで走るか?を考えていた。アルビのユニフォームか?とも思ったが,なんだかイタくなりそうなので止めて,大会数日前に手に入れた「カメラを止めるな!」Tシャツにした。わかる人にわかってもらえればいいのだ。

大会前日,マラソン大会にいつも出場している人にアドバイスをもらった。

  • 直前にトイレに行きたくなるが,それは気のせいだと言うこと。
  • 応援をしてくれている沿道の人には手を振ること。

ということだった。なるほど。

当日は暑くなく,快晴で,最高のコンディションだった。新潟駅南口のバスターミナルにいったら,シャトルバスを待っている人の列が,駅構内まで続いていた。過去,アルビホームゲームのシャトルバスでさえ,こんなに混んだことがない。6時半出発と決めて,ちょっと遅れたことに後悔した。バスは全て観光バスで,座れたのがありがたかった。ビッグスワンに付いたら,それほど時間の余裕は無かった。トイレに行ったりゼッケンを付けたり,なんだかんだで荷物預け入れ20分前に預けた。その語トラックに行ったが,そこでまたトイレに行きたくなった。「気のせい」かな?と思ったが,気のせいではなかった。

高橋尚子さんがゲストランナーでいて,さすがマラソンのプロ,初心者の私たちのために,的確なアドバイスをしてくれる。ペース配分とか,靴紐の結び方とか。Negiccoもいたりして,だんだん気持ちが盛り上がる。

スタートして,沿道にたくさんの人がいて,応援してくれている。企業を挙げて応援をしていたりして,ああ,いい宣伝になるんだなと思った。たまにアルビの旗を振って応援している人もいて,手を振り返す。子どもたちがハイタッチを求めていたりして,ハイタッチをしに行く。鳥屋野潟周辺の道は狭くて,人にぶつからないように気をつける。そこを離れると広い道になり,気が楽になる。

スタート前,もっと水を飲んでおけばよかったと,だんだん乾きを感じてきた。5km地点に給水所があるから,とりあえずそこを目標に頑張る。給水所はボランティアの方が一生懸命ペットボトルからコップに水を汲んでおいてくれる。これは大変だ。5杯飲む。

なんとか潤い,次の目標は万代橋だ。万代橋の真ん中を走るのは本当に気持ちがよかった。左右が川で,目の前は柾谷小路。そんなところを走れるのはこのマラソン大会しかない。

そこを渡ったあたりから,左膝が痛くなってきた。靱帯がおかしくなってきているらしい。今までのペースで走れなくなってきた。あと2㎞。「絶対に歩きたくない」と思っていたので,歩幅は短くなりながら,走り続けると,高橋尚子さんが,道の真ん中に立って「後もう少しです」と応援してくれる。ハイタッチをする。アルビレックスチアリーダーズとハイタッチをする。新潟文理高校のダンス部,新潟清心女子高校のダンス部とハイタッチをする。現金なもので,その時は足の痛みを忘れてハイタッチをして走った。

何とかカミさんと同タイムでゴールをして,無事に終わった。ボランティアの女子高生に写真をとってもらったり,おにぎりをもらってベンチで食べたりして,最近得ていなかった達成感に満たされた。

こんなにいい天気で,最高のコンディションでランニングできたらやみつきになるよなーと思った。次は子どもたちと出たいと思ったり,ハーフマラソンを目標にそこまで鍛えたいと思った。

留守番していた次男に電話をして,風呂を入れて待っていてもらったり,その後ピザ屋に行って,生ビールを飲んだりして,最高の1日を過ごした。ただ,脚が痛くて,まともに歩けなくなってしまった。これって,鍛えれば痛くならないようになるのかな?来年も出よう。

bunbun-hbunbun-h2018/10/09 19:20ナイスラン! さて、次はハーフでその次はフル、そしてついにはウルトラへと・・・いや、これは次第に深みにはまって行った私のケースでした。

F-KatagiriF-Katagiri2018/10/10 08:44bonbonさん,ありがとうございます。せめてハーフは走れるようになりたいですが,気力がもつかどうか……。

2018-09-29コーディネーターの質

[]コーディネーターの質 コーディネーターの質 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - コーディネーターの質 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 コーディネーターの質 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

新潟エンジン02という,新潟の文化について考えよう!というイベントに参加した。A講座の「日本文化を気楽に楽しもう」に参加した。

きっと,「和文化」のとらえ方や,「実はこの文化にはこんな裏があって,ここと繋がっているんですよ。」なんていう気づきを促してもらえるのか?と思いきや全くチープなものであった。

パネリストは華道の師匠,狂言師,料理学校の校長という方々で,お話が期待できたのだが,コーディネーターが日本文化なんてあんまり深く知っていないと思われる人で,単にパネリストと顔なじみでいるだけだと思われた。単なる雑談をパネリストにふって,自分の体験談とからめて話を進めているだけだった。

本当にがっかりだった。華道と狂言と料理,和文化での共通点と相違点を掘り下げるだけでも面白い話が期待できたのだが,全くそんなことはなく,時間の無駄で,参加料の無駄だった。早く終演が来てほしいと思えた数少ないパネルディスカッションだった。

パネルディスカッションというものは,コーディネーターがほぼ全権を担っていて,コーディネーターの力による恐い会だなと思った。本当はコーディネーターなんて関係なくパネリストがディスカッションすれば,面白い会になるんだろうとも思った。

2018-09-25「主体的」と「対話的」について

[]「主体的」と「対話的」について 「主体的」と「対話的」について - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「主体的」と「対話的」について - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 「主体的」と「対話的」について - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

f:id:F-Katagiri:20180925104532j:image

こんな文章を読んだ。

到来した者の言葉は、私の理解や共感を超えているにもかかわらず、その理解できない言葉を,私はそれでもなお一個の「主体」として引き受け、聴き取らなければならないからである。この背理的な責任の引き受けを通して、初めて「主体」は成立する。

「主体」というのは、理解を絶した異語「おのれの責任において」聴き取り、その意味を「おのれの責任において」解釈する者のことである。そのような仕方で「責任を取り得る」者だけが「主体」として立ちうるのである。

(内田樹:『ためらいの倫理学』,角川文庫,2003,「越境と巡歴」,p.294)

内容的には「神の言葉」や,「布教」などについて触れている部分なのだが,「主体」と「対話」の関係が述べられている。「主体性」がなければ「対話」にはなりえないということだ。

簡単にいえば,

何でも言いなりになり,人に言われたことを鵜呑みにする主体性が無い人や,「おのれの責任において」聞く耳を持たなくなった人は対話はできない。

ということだ。

「対話」というのは,相手がいかに自分の理解や共感を超えていようとも,相手の存在を認め,尊敬する気持ちがなければ成り立たない。それがなければ「言い合い」,「口げんか」となる。「主体的・対話的で深い学び」には,実は「対話的」に大きな意味が含まれていたのか。

そうすることで「その意味を「おのれの責任において」解釈する」ことができる。まさに,

意味を自分で見つける

という「深い学び」が起こるということだ。

2018-09-23「野火」とゾンビ

[]「野火」とゾンビ 「野火」とゾンビ - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「野火」とゾンビ - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 「野火」とゾンビ - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

f:id:F-Katagiri:20180924105506j:image

大岡昇平原作,塚本晋也監督2015年版「野火」を観た。AmazonPrimeで,「そろそろ見放題終了」と出たので,今のうちに観ておかねばと思った。

とにかく凄惨な映像が続くのだが,フィリピンの昼間の緑の美しさと,生きるために何でもする人間のどす黒さが対比されていたことが印象に残った。

日本軍のフィリピンからの撤収が決まり,生きるためには輸送船が出る地まで行かなければならない。そのためには夜,闇に紛れて平原を抜け,山を越えなければならない。アメリカ軍はそれを待ち伏せし,照明を浴びせ変え,一斉砲撃をする。その映像が生々しい。頭は砲弾でぶっ飛び,血が噴き出し,内臓はだらだら地面にこぼれ落ちていく。腕や足は散らばり,自分のものを探して兵士は拾う。

実は前日ゾンビ映画*1を劇場に観に行ったのだが,「野火」の映像を観ていて,これってゾンビ映画とほぼ同じだなと気づいた。ゾンビ映画やドラマはほとんど見ないのだが,ちょっと観たことがある「ウォーキングデッド」にも,こんなシーンがあったなぁと気づく。

その戦闘が終わり,前にも後にも勧めない兵士たち,そのジャングルで野垂れ死ぬしかない兵士たちの容貌がゾンビにだんだん似てくる。全身が黒くなり,腕や足が無い人がそこら辺に散らばり,死にかけている人に虫が湧く。あの,以前に観たゾンビドラマは,この戦場を模しているのか?とも思った。

どこにも行けず,さまよい歩き,人肉をむさぼり食おうとする。まさにゾンビだ。これが現実の戦場で起こっていたのだ。

「カメラを止めるな!」では,「最近のゾンビ映画では,ゾンビがナイフも持ちますし,機関銃も持ちます。」というセリフがあった。兵士=ゾンビだったら,ナイフも持つし,手榴弾も持つし,銃だって持つだろう。

ひょんなことから極限状態の人間の行動がゾンビ映画のルーツにあったのかと気づかせてくれた映画だった。

野火(のび) (新潮文庫)
野火(のび) (新潮文庫)大岡 昇平

新潮社 1954-05-12
売り上げランキング : 9873


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

*1:カメラを止めるな!

2018-09-12なぜ「みんなが」勉強をしなければならないのか

[]なぜ「みんなが」勉強をしなければならないのか なぜ「みんなが」勉強をしなければならないのか - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - なぜ「みんなが」勉強をしなければならないのか - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 なぜ「みんなが」勉強をしなければならないのか - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント


f:id:F-Katagiri:20180912190951p:image

ねぇ,オカムラ,なんでみんなが勉強しなければならないの?

とチコちゃんに聞かれたら,なんて答えるだろうか?これは語り尽くされたような論題だが,ふと気づいたのでメモ程度に書き記しておく。

「学校の勉強は,将来役に立たないのに,どうして勉強しなければならないの?」に対して,いろんな人が書いたものをネットで漁っていると,

  • 将来よい職に就くため
  • 論理的思考を付けるため
  • いろんな見方ができるため
  • 将来直面する問題を解決するため

などなど,いろいろ書いてある。それぞれ間違っていないことだし,きっと子どもたちにも受け入れてもらえるものだと思う。

しかし,自分は家を継ぐんだとか,自分は体を使う仕事をするから,論理的思考なんていらないとか,個人個人によって将来「役に立つ」ものは違ってくる。「難しいことは他の人に任せておけばよい。」と言われたらそれきりだ。

また,人それぞれ直面する問題も違ってくるから,勉強内容も個人個人によって違ってこないと,将来降りかかってくる問題に対応できない。「いつかどんな問題が降りかかってくるかもしれないから,まんべんなく全て勉強しておこう。」と言ったら,「いつか役に立つかもしれないから,勉強しておくひつようがあるんだよ。」という漫然とした答えになる。

私は「「みんなが」勉強*1しなければならない」という理由を考えてみた。それは,

民主国家を維持するため。

だ。もっと詳しくいえば,「権力者を監視するため」だ。日本はこの感覚がとても薄い国だと思う。権力者がやりたい放題でも,暴動は起こらず,国家は転覆せず,政権が維持される。別に暴動を起こして,国家を転覆しようといっているのではない。とりあえず多くの人たちが食えるからといって,いろんなことをスルーしてちゃだめなんじゃないの?と思う。

全ての国民がおかしいところを「おかしい!」と気づき,「おかしい!」と発言するという,当たり前のことができるようになるために,「「みんなが」勉強しなければならない。」のだ。

本来は権力の監視役はマスコミがその役を担っているのだが,新聞に金を払わず,どうでもいいネットニュースが蔓延し,フェイクニュースに飛びつくようになると,権力の監視役をするマスコミにお金が渡らなくなり,弱体化していく。権力者はそれを狙っているのではないか?とも思える。

それ以前に,アメリカや日本のある政治家は平気で「○○新聞や,○○テレビはフェイクニュースを流すから,記者会見には出入り禁止。」なんて言う。とんでもないことだ。権力のジャーナリズムへの挑戦だ。しかし,出入り禁止になると商売あがったりだから,政治家の機嫌を損ねるようなツッコミはだんだんしなくなる。泥沼だ。

それ以前に,マスコミの報道を読む力,見る力,聞く力がなければ,マスコミにお金がいかなくなる。文字を読む力,話を聞く力,数字を分析する力,社会の構造を読み解く力,自然現象を捉える力などを総動員して,権力を監視しなければならない。

それを「みんなが」やっていかないといけない。権力者はその力を弱体化して「いいなり」にしようとする。「思考停止」させて民衆を扇動するのは,権力者が民衆を戦争に引きこむ常套手段だ。

日本の場合は,2009年,投票率が小選挙区制度後最も高くなったときには政権が交代した。政治に関心が高くなると政権交代が起こる。政権交代させたくない場合はみんなを投票所に行かせないという方法が効果的だ。ということは,政治への無関心を維持させることが最もよい方法となる。



「スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む*2

には,次のようにスウェーデンの教科書の記述が紹介されている。

メディアが,あなたやあなたの価値観,そしてあなたの意見に影響を与えるのと同じように,あなたも自分のためにメディアを利用することができます。

《中略》

以下に,あなたが世論を形成し,それによって決定に影響を与えるためのコツを示しておきます。

・あなたの友人や親類から,署名による支援を集めましょう。

・地方の新聞に投書しましょう。

・フェイスブックでグループをつくりましょう。

・人々を集めてデモをおこないましょう。

・責任者の政治家に,直接連絡を取りましょう。

pp.42-43

日本の小学校の教科書で,こんなことが書かれてあるものはないだろう。日本の場合,「民主主義」はすでにあり,いつもあるもので,勝ち取るものではないと,みんなが思っているし,民主主義が完全に失われてしまうと,取り返しが付かないことになるということを,肌で感じている人は少ないように思われる。

そしてこれは「みんなが」やらなければ意味がない。みんなが権力を監視し,反対する場合は「ノー!」と言えるようにしないと,「ノー!」と言わない人が権力に操られてしまう可能性がある。

「ノー!」と思ったら,それを訴えなければならない。同書籍には,こんなことも書かれてある。

影響を与えたいことについて,あなたが知識を持っていることを世に示すことで常によい効果が期待できます。そのことを,頭に入れておきましょう。

とはいえ,学校の職員や両親,近所の人々,コーチ,そして最終的に政治家を味方につけるためには,誤字などの誤りがなく,正しく書くことが重要となります。あなたが,しっかりと準備が整っており,ちゃんとした文章が書け,そして自分の意見を冷静にしっかりと伝えることができるということを示しましょう。

p.144

国語」の目的をこうもシンプルに書いてある教科書(や参考書,解説書)が日本にあるだろうか?

「全員」で権力や社会の監視役をしなければ,世の中はよくならないのだ。これが私の考える「「みんなが」勉強をしなければならない」理由だ。

*1:「勉強」のここでの定義は,義務教育の勉強とする。

*2:ヨーラン・スバネリッド 鈴木賢志 他翻訳 新評論 2016

2018-09-11国家の教育支配がすすむ 寺脇研

[]国家の教育支配がすすむ 寺脇研 青灯社 2017 国家の教育支配がすすむ 寺脇研 青灯社 2017 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 国家の教育支配がすすむ 寺脇研 青灯社 2017 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 国家の教育支配がすすむ 寺脇研 青灯社 2017 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

公立高校教師だったときは,全く知ろうとしなかったし,考えもしなかったが,寺脇研さんや,前川喜平さんの本を最近立て続けに読み,教育行政というのは,こういう構造,こういう法律の下おこなわれているのか,と今更ながら知った。

また,文科省はどんな仕事をしているのかということも最近ようやく知った。以前,あまり知らなかった時,学校にいろんな注文を上から押しつけているものだという感覚を持っていたのだが,文科省の方と話す機会を持てたり,このような本を読んだりすると,法律の下,政治家の押しつけから教育を守ろうとしてたり,現代の事情に合わなくなった法律を改正しようとしたりと頑張っている人もいるのかとわかった。

この本で,印象に残ったことの1つは次の記述。

公立学校では教師が公務員だということの意味を,実は教師自身もよく理解していないのではないだろうか。もちろん保護者の多くも理解していない。公務員だからこそ原則をふまえつつ知恵を尽くしてていねいに事態に対応していかなければならない。公務員という公共の領域で働く者まで短期的な成果主義一辺倒で評価し,成果として数字に表れにくいものを切り捨て踏みつぶして行ったら,その先にどんな恐ろしいことが起こるかという想像力を,みなさんあまりお持ちでないようだ。

p.133

として,1930年代に軍部が暴走した原因の1つをあげ,目先の「手柄」を立てて,成果を誇示し,自身のポストを確保しようとしたという。教師を公務員という身分にしているのは,「立場を超えた余計な野心を持たせないための身分保障」という意味もあるというのだ。

近年は「分かりやすい成果主義」に教員が傾倒している傾向がある。校長が傾倒し,それに迎合する教員が「がんばり」過ぎ,おかしな方向に進んでいる。教育というのは「わかりにくい」ものである。本当に成果が現れるのは目の前の子どもが社会を担う大人になった時だ。目の前の「分かりやすい成果」と「社会を担える大人になること」の因果関係は明らかになっていない(と思う。明らかになっていたら,きっと大々的に周知されているはず。)。つまり,「経験論」でしか述べられていない。



法律によって教育行政はなされている。教育内容も学習指導要領によって定められている。教科の授業は必ずある教科書を使うことになっているが,教え方は学習指導要領の範囲内で,教師の裁量に任せられている,というように教育の自由がある。教育委員会や文科省や政治家が教室でどのように教えているか介入してきたら問題である。(そんな問題も最近起こっているが。)この本を読みながらぼんやりと考えたのが,校長が学習指導要領に反するようなことを指示してきた場合,1教師が従わねばならないのは,学習指導要領なのか,校長なのか。

私はもちろん学習指導要領だと思うのだが,実際はそうではないことも多い気がする。

国家の教育支配がすすむ──〈ミスター文部省〉に見えること
国家の教育支配がすすむ──〈ミスター文部省〉に見えること寺脇 研

青灯社 2017-11-10
売り上げランキング : 351943


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

2018-09-05連続ドラマの減退感

[]連続ドラマの減退感 連続ドラマの減退感 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 連続ドラマの減退感 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 連続ドラマの減退感 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント


f:id:F-Katagiri:20180906094731j:image:w260:left

毎週,毎日,ドラマを見ているが,面白いドラマとがっかりなドラマの違いは,勢いが減退するかどうかだと思う。

NHKの朝の連続テレビドラマで「面白い!」と思えるものを作るのは,非常に大変だと思う。毎日毎日次の日見てもらえるような終わり方をし,毎週毎週新たな期待を持てるエピソードを作り,それを半年続けて行く。

しかし,週1ドラマの方が,実は難しいのか?とも思う。毎日あるドラマは,「見たい!」と思う熱量があまり冷めないうちに次の日が来る。しかし,週1ドラマは,今回見た回が面白ければ面白いほど,1週間のうち期待値が上がる。その期待に応える内容にならなければならない。また,面白くなければ,1週間でげんなりして次には見なくなる。

朝の連続テレビドラマはほぼ全部見続けているのだが,途中で見なくなったものは,演技の白々しさが鼻についたものぐらいだ。あれは,演出でわざとそのような演技を指示しているとしか思えなかった。その役者は別のドラマでは,いい演技をしていたりするから。

週1ドラマでは,初回,2回目と面白い設定と,リアルさで毎週楽しみになるのだが,だんだん次の点が気になって,期待値がどんどん下がっていく。

  1. 説明のない設定の変化
  2. ご都合主義の問題解決
  3. あり得ない問題解決方法
  4. 大げさすぎると思う主要登場人物周りの反応
  5. 簡単に問題が解決したと思う登場人物の感情
  6. 本当は問題視しなければならないところを完全に無視する展開

人間はそれほど悪くもなければ,よくもない。内心は極悪だったり,クズだったりするのかもしれないけれど,それを簡単に表に出して,「あいつはあんなにひどいやつだ」と思われるようなことは避けるはず。でもご都合主義のドラマでは,それを出すことで,ストーリーを進めていく。いやいや,その対応,問題にして,しかるべき期間で対応しろよ!と思っちゃう。

特に学校が舞台のドラマだとそう感じてしまう。きっと,医療現場や,警察現場でも,その職の人は,そのように思っているんだろうな。

2018-08-29最高のエンターテイメント

[]最高のエンターテイメント 山下達郎コンサート 最高のエンターテイメント 山下達郎コンサート - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 最高のエンターテイメント 山下達郎コンサート - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 最高のエンターテイメント 山下達郎コンサート - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

今シーズンの山下達郎ツアーは,新潟は1日のみだった。20年以上2日間だったそうだ。1日のみだったから,チケットを取るのは至難の業だっただろう。私はファンクラブ会員だから難なく取れたけれど。それでも調整席のすぐ近くだった。最近P席近くには行けてないな。

歌はもちろんのこと,演奏も最高級なのは当然だし,コンサートの構成も,トークもよく練られたものだと感じた。とんがった昔の曲はあり,ここ1年で出された2曲のシングルも歌い,定番の曲もあり,ベタな曲もあり。いろんな聴衆を楽しませてくれるのだろうと思った。

それは演者だけではなく,AV技術もすばらしいと感じたのが,山下達郎がスピーカーの前で歌っても,ハウリングを起こさなかったということだ。一瞬起きたのだが,ほんの一瞬で,その修正もすばらしかった。音響技術も超一流なんだと思う。

お客さんも,出しゃばらず,引っ込みすぎず。あんまり出しゃばるお客がいると,げんなりしてしまうのだが,大声でかけ声をかける客もいるが,山下達郎がたまにいじったりして,ちょうどいい感じ。

山下達郎のコンサートでは,あんまり「お決まり」がない。1つだけあるとしたら,クラッカーを鳴らす曲(レッツ・ダンス・ベイビー)があるとということ。それだけ。みんな決まった振りをすることもほぼない(一部の人がやっているが,やらない人はやらない)。そういうのも個人的に好きだ。同じ振りやかけ声を強要されていると感じると,している人には一体感が生まれるが,しない人は疎外感が出てくる。聴いていて,思い思いにノルのが好きだ。

いつものことなんだけれど,聴いていると,「もっと聴きたい」と思うのだが,「もっと」聴くと,終演に近づいてしまうというというジレンマがある。変な感じ。

この高揚した感じをずーっと感じていたいが,ずーっと感じているとそれも飽きてしまうのかもしれない。そのちょうどいい時間で終わる。といっても3時間なんだけれど。

たくさんの人数で,声を出したり,手拍子を打ったりして,そして楽しい。久しぶりにこんな感覚を得た。ビッグスワンで同じようなことをするが,最近は楽しさが全くないからなぁ……。

このエンターテイメントは,日本,いや,世界最高峰のものなのかな?とも思う。だからチケットを取ることが非常に難しくなっているのだろう。難しいから,運転免許証の提示が必要になる。運転免許証を持っていない中学生は,住民票を取ったり,保険証を持っていったりと大変になるんだよな。それが面倒くさい。今回はアームバンド制が無くなったから,ちょっとは簡便化された。認証してくれた係の人が教え子でびっくり。

最高級のエンターテイメントをしているということで,「山下達郎=ジェームス・ブラウン」説を唱えたい。そのうちマントショーをしてくれるんじゃないかな?

f:id:F-Katagiri:20180830130015j:image

2018-08-16国語学習は何のため?

[]国語学習は何のため? 国語学習は何のため? - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 国語学習は何のため? - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 国語学習は何のため? - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント


f:id:F-Katagiri:20180816165045j:image

1.初めに

本文は,学習指導要領の解説をするものではなく,昨年から「国語の学習は何のため?」ということを考え続けてきたので,そのまとめとしてのメモである。授業で学生と対話して見えてきたもの,本を読んで見えてきたものを少し整理して書きとめておく。

2018年公示新高等学校学習指導要領に,国語の目標として以下のようにある。

言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で的確に理解し効果的に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。

(1) 生涯にわたる社会生活に必要な国語について,その特質を理解し適切に使うことができるようにする。

(2) 生涯にわたる社会生活における他者との関わりの中で伝え合う力を高め,思考力や想像力を伸ばす。

(3) 言葉のもつ価値への認識を深めるとともに,言語感覚を磨き,我が国の言語文化の担い手としての自覚をもち,生涯にわたり国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う。

国語科という科目は「言葉による見方・考え方を働かせ」方や,「言葉による見方・考え方」とは何か?を取り扱う唯一の科目だ。もちろん他の教科で「言語による見方・考え方」を働かせる場面はある。それを「言語活動」というのだが,言語活動をおこなうことにより,それぞれの教科特有の「見方・考え方」を深めるためにおこなっている。つまり,「言葉による見方・考え方」の理論と実践を扱う唯一の科目だ。もうちょっとフランクにいえば,「日本語の機能を理解し,使い方を練習する」科目と言える*1


2.言葉による見方・考え方とは?

それでは

「言葉(日本語)による見方・考え方」とは何か?

「言葉による見方・考え方」とは,内田樹の言う「言語の檻」のことである。日本語を母語として,日本語で物事を考えている場合,日本語の見方・考え方から離れることはできず,「日本語的思考」で考えざるを得ない。

私は日本語以外の言語に関して,不案内なので,日本語を他の言語の見方・考え方で眺めることができない。それがとても残念なのだが,他の言語に堪能な人に話を聞くと,どうやらそういうことがあるようなのだ。

世間に流布されている間違ったとらえ方をしている人は「日本語は曖昧だから,論理的な表現をするのに不得手だ。」と言う。しかしそれは誤りで,日本語は曖昧な表現もできるし,論理的な表現もできる。それは日本語の語順が自由だからである。「結論」を最後に持って来て,それを「言わなくても」文章として成り立つ。「わたし,ラーメン。」という表現は日本語として間違いではない。

しかし,語順が不自由な言語だと,「言語の檻」がガチガチで,そこから離れることができないというのだ。「我,拉麺。」という中国語は成り立たない。何を言っているのか全く伝わらないそうだ。

こんなふうにまず,「言語の檻」があるということを認識させるのが国語の学習の目標となるだろう。そして,その檻から抜けられないのであれば,その檻を大きくする(=語彙や,表現方法を増やす)ことにより,今よりも自由な日本語の使い手となるはずである。

語彙や表現方法を増やす

ことは,何に繋がるのかというと,「世界,社会」を広げることに繋がる。

我々は幼い頃から,自分の経験(見たり聞いたり触れたり……したもの)が先にあり,それに言葉が後からくっつき,それを認識していく。ヘレン・ケラーが「Water!」とサリバン先生に教わって,外の世界を知っていったように。経験が先にあり,後が後から当てはまる。(語後)

しかし人間の経験できることは,多く見積もっても,その人の半径数百メートル内のものだから,限られてくる。それでは世界,社会は広がらない。そこで,先に言葉を知り,後から経験が当てはまっていくことが起こる。(語先)

ああ,これって「恋」なのね。

というよくあるフレーズがそうである。言葉を知ることは,ほぼ無限(言葉の数だけ)にできることなので,世界,社会は言葉の数だけ広がる可能性がある。その人の経験できることは有限かもしれないが,「想像」の可能性はほぼ無限であり,想像できる分だけ世界,社会が広がる。これが学習指導要領の目標にいう,「思考力や想像力を伸ばす」ことに繋がる。

3.エクリチュール

エクリチュールとは,

社会的に規定された言葉の使い方

*2。日本はヨーロッパに比べると緩いらしい。ヨーロッパ諸国は,社会階層により規定されているが,日本は片鱗が見えるのが主に職業によるものらしい。

エクリチュールは,その階層による言葉遣いなのだが,言葉遣いを別の階層のものにすることにより,別の階層のものの見方・考え方を得られる可能性がある。これも一種の「言語の檻」と言っていいだろう。

もうちょっとくだけて身近な例で言えば,「丁寧な言葉遣いをすれば,物事を丁寧に見ることができるし,その逆もある。」ということだ。これは敬語にも通じる。日本語は「敬語」にガチガチに縛られた語であるので,自分の目上なのか,目下なのかを意識せざるを得ない。人を呼ぶときに必ずその意識を持つことになる。呼び捨て,さん付け,君付け,ちゃん付け……全て自分と上か下か(もちろん同等もあるのかもしれないが,常に同等であることはないだろう)を意識する。

だからこそ,他人を敬うということを言葉遣いから身につけることにより,平穏な,ストレスフリーな社会を維持していくというのも国語の学習の目標であると思う*3

新学習指導要領にいう,「他者との関わりの中で伝え合う力を高め」に繋がる部分である。

4.古典は何のため?

古典なんて原文を無理矢理読ませないで,現代語訳で十分だというご無体な意見を言う人がいる。果たしてそうなのだろうか?今まで述べたとおり,言語は「檻」である。言語であるということで,「見方・考え方」が規定されている。

こんな例で考えてみよう。

理科の授業は実験が命だという。じゃあ,実験をするには器具をそろえたり,薬剤をそろえたり,お金がかかるから,誰かが実験をしたものをビデオに撮って,それを学習者に見せれば,実験したことになるんじゃない?ビデオに撮るのも手間だから,実験の手順とその結果が掲載されている教科書を読ませればいいんじゃない?なんて言われたら理科の先生は反論するだろう。

ビデオに撮る時点で「制作者の意図」が必ず入る。教科書に記載する時点で「執筆者の意図」が必ず入る。それでは本当に実験をしたことにならない。学習者は生の情報に触れる必要があるというのが,反論の理由だ。その通り。

これは文章にも当てはまる。例えば超有名な枕草子「春はあけぼの」の文章は,あの文章自体であの世界を完璧に(または,他に類を見ないほど)表現できているから,1,000年以上の時を超えて伝えるに値すると判断され,教科書に掲載されている。取るに足らない昔の文章は,もう,再現不可能な状態で消え去っている。

その「春はあけぼの」を現代語訳したものや,同じような世界観を記述したものは,オリジナルの「春はあけぼの」を絶対に超えていないはずだ。超えていたのだったら,その現代語訳したものの方が,価値があるとして有名になっているはずだ。ということは,そのオリジナルの生の情報に直接触れることが大切であって,現代語訳に触れることは,その価値から何段も低い情報に触れているということになる。

しかも,1,000年以上前に生まれたオリジナルに古語辞典1つあれば,誰でもアクセスできるということは,日本の知的リソースを守る上で,この上なく重要なことだ。一部の特権階級しかアクセスできないばあい,その特権階級が消滅したら,誰もアクセスできなくなる。

最近,どうしてみんなが勉強しなければならないのか?と考えてみた。もちろん個人個人の幸せのためなのだが,それだけではない。民主社会だからなのだ。一部の人たちのみが読み書きができ,メディアリテラシーを持つだけだったら,民衆は簡単に権力者に欺され,いいように使われてしまう。その権力者に歯止めをかけるために,我々は勉強し,意見を言い,「みんなが」住みよい世界にしていかなければならない。

日本の教育が,子どもたちを苦しい方向に追いやっているとしたら,それは権力者の思うつぼなのかもしれない。単に経済成長のみを重要視し,経済成長に関与しない者を切り捨てる意見を持つ人ばかり大きな声でものを言える社会を作り出そうという流れに「NO!」と教育に携わる者たちは声を挙げなければならない。

話を古典学習に戻すが,古語辞典1つあれば,1,000年以上前のリソースにアクセスできる知性を持つ国民がこれほどいる国は,あまりないのではないかと思う。それは「単なる趣味で国民全員がする必要が無い」という人もいるかもしれないが,そうであれば,同じ論法で「国民全員が実験,観察をする必要が無く,動画で済ませればよい」ということになる。動画で何がわかるんだ?と私は思う。「生のサッカーを見ない人が,サッカーを語るな!」と同じことだ。

「本物」に触れることが重要だし,ちょっと頑張れば「本物」を感じることができるのだ。これは日本文化が脈々と続いていることに起因するとても貴重なことだ。これを子どもに体感させるのに教育的意味が無いはずがない。これが新学習指導要領の目標「言語感覚を磨き,我が国の言語文化の担い手としての自覚をもち,生涯にわたり国語を尊重してその能力の向上を図る」に繋がるところだ。

5.終わりに

ブログ等をつらつら見ていると,悩める国語教師が「受験国語に意味があるのか?」ともがいている。もがいているが,受験国語をせざるを得ない境遇で,受験国語に意味を見いだしている。受験国語をすることを強いられ,それがイヤになり,ドロップアウトしたような我が身で,何をいっても納得力が無いかもしれないが,本来教育は「その授業を受ける全ての人に意味がある」ものをしなければならないと思っている。

一般的な学校で,教室内に40人ほどいて,受験国語を授業でおこなって,いったいその授業内容は,40人の内どのくらい届いているのだろうか?受験問題を解かせて,解法を教師が説明する。その説明は教師の解法であり,子どもの思考パターンにぴったりくる解法ではない可能性がかなりある。その子どもは「その解法が『正解』なのか」と思い,自分の思考パターンに合わない解法を取り入れようとする。しかし,合わないから,身につかない。

受験国語の授業と,子どものテストの点数の因果関係はあるのだろうか?国語の先生で,学生時代,国語の授業で受験国語を習い,点数が上がったと思っている人は,どの位いるのだろうか?少なくとも私は受験国語の授業が面白くて(ためになって)点数が上がったタイプではないが,受験国語授業を押しつけていた。

話はそれたが,教育の目標は,今教室で目の前にしている子どもたち「全て」が目指すもので無ければならない。「40人の内,5人を相手にしている」ではいけない。そんなのをしたいのだったら,自分が相手にしたい学習者ばかりがいる環境に移ってやるべきだ。5人を相手にするために,35人を無視することは公教育では絶対にしてはいけない。

「受験国語に意味がある」と考えている人は,目の前の子どもたち全員に意味がある授業をしているかどうかを問うてから,その考えを続けるかどうかを決めてほしい。

*1:「日本語」と限定しているのはもちろん他の言語を扱う「英語」もあるからだ

*2http://manabiai.g.hatena.ne.jp/F-Katagiri/20180116/p1

*3:自分を「お客様」と思うことで,客が急に獲横柄な態度を取り出すという事例もある。